ホンダF1第2期から第3期まで7年間の空白の期間がありましたが、その間に本家ホンダの代わりにF1に挑戦したカスタマーエンジンメーカーがありました。
その名は無限ホンダ。
無限ホンダはメーカー系エンジンでなければ勝てないと言われた90年代後半のF1で、非自動車メーカーとして4勝を挙げる活躍を見せました。
そんな無限ホンダの挑戦の歴史はどのようなものだったのでしょうか。
今回は
- 「そもそも無限ホンダって?」
- 「何でF1に参戦したの?」
- 「F1で4勝ってそんなにすごいの?」
などなど、無限ホンダのF1挑戦の歴史や疑問について解説します。
この記事を読めば無限ホンダのF1挑戦がいかに偉大か伝わると思います!
無限ホンダエンジンのF1挑戦の歴史を解説
本田宗一郎の息子、本田博俊が創業した無限
無限はホンダの創業者である本田宗一郎の息子、本田博俊が、後のホンダの社長である川本信彦らとともに設立した会社。
博俊がレーシングエンジンの開発を行いたいという想いから設立されたこの無限ですが、創業当初はホンダの4輪、2輪車のチューニングパーツ製造を手掛けていました。
創業当初は2輪のモトクロスの事業が中心でしたが、徐々に4輪用レーシングエンジンの開発にも参入。
1980年代以降、国内を中心としたレーシングエンジンの開発、供給を続け、チームとしても国内レースに参戦していました。
そして「いつかF1エンジンを作りたい」という野望があった博俊は、1980年代後半になると、F1用エンジンの開発を開始します。
博俊は市販F1エンジンの先駆けとなったイギリスのコスワースを参考に、チームに対してエンジン使用料を取る「日本版コスワース」を目指すことを掲げ、プロジェクトを進めていきました。
するとF1が1989年からターボエンジンを禁止して自然吸気エンジンに限定されることが決まると、無限は自力でF1に進出することを模索し、完全オリジナルの3.5リッターNA V8エンジンを開発。
ティレル018や、レイナードのF3000マシンに搭載して水面下でテストを実施したのです。
しかし、ある話が舞い込んだ事でこのV8エンジンはお蔵入りとなります。
1990年末、ホンダが1992年を最後にF1から撤退することが決定的となったのです。
撤退することを決めたホンダはこの時、数年後にはF1に復帰する構想も織り込んでいたため、年月が経過することによる若手エンジニアへのノウハウの引き継ぎが課題となっていました。
そこでホンダは、F1参入を模索していた無限に「ホンダが再度F1に参入するまでの技術の橋渡し役」として、ホンダF1の技術資産などを引き継ぎF1へ参戦することを提案。
最終的に無限はホンダがあのマクラーレンに供給し9年と90年にはチャンピオン獲得にも貢献したV10エンジン「RA101E」を引き継ぐ形で、F1に参入することになったのです。
当初は「無限」の名で参戦する予定だったものの、支援元のホンダ側の希望もあり、「無限ホンダ」として参戦することが決定。
ちなみにこの時のホンダの社長は、無限の創業メンバーの一人である川本でした。
最初は本家ホンダのカスタマーエンジンでF1参戦
こうしてホンダ第2期最終となったの1992年からF1に参入した無限ホンダ。
最初にエンジンを供給したチームは日本企業がオーナーとなっていたフットワークでした。
この年の無限ホンダのエンジン「MF351H」は、前述の通りホンダ「RA101E」をベースに改良を加えたものでしたが、
重量がネックとなり、更に設計も古いものになっていたため重心も高くバランスはいまいちでした。
この年のフットワークはミケーレ・アルボレートと鈴木亜久里がコンビを組み、アルボレートが4度入賞を果たしたものの、亜久里は2度の予選落ちを喫するなど苦戦。
空力特性も良くなかったとはいえ、無限は弱点を克服するため、翌1993年はエンジンの軽量化を実施しました。
この施策が功を奏し、93年の第12戦ベルギーGPではアルボレートの後任であるデレック・ワーウィックと亜久里が、予選で6、7番手を獲得する走りを披露します。
そして、1994年はロータスに改良型エンジンの「MF351HC」を供給。
シーズン終盤のイタリアGPでは、渾身の新スペックエンジンを投入しました。
するとハーバートはこのイタリアGPの予選で4番手を獲得する躍進を見せ、この年の最上位グリッドを獲得したのです。
意地を見せた無限ホンダでしたが結局この年のロータスはノーポイント。
ロータスは経営難を立て直すことができず、この年限りでF1から撤退。
無限ホンダは新たに95年の供給先を探すことになります。
リジェとパニスの手によってモナコでついにF1初優勝
95年の無限ホンダは当時ベネトンの代表であったフラビオ・ブリアトーレとトム・ウォーキンショーが共同経営をすることになったリジェに供給することが決定。
当初無限側はミナルディと契約寸前まで話が進んでいたものの、急遽リジェに供給先を変更したことで波紋を呼び、ミナルディがリジェを訴える事態に発展しました。
この年の無限ホンダエンジンは3リッター規制に対応した新エンジン「MF301H」を投入。
この年のリジェのマシンJS41に搭載されマーティン・ブランドルが第11戦ベルギーGPで3位表彰台を獲得するなど2度の表彰台を獲得。
手応えを感じた無限は翌96年に向けて「優勝を狙えるエンジン」を合言葉に新エンジンを開発。
95年の仕様にプラス30馬力、最高回転数を5000回転向上、6kgの軽量化を図るという厳しい目標を自ら化し、最終的にはそれを達成したといいます。
リジェはこの頃、経営陣のドタバタで資金難に陥っていましたが、第6戦モナコGPではチェッカーを受けたマシンが3台という前代未聞のサバイバルレースとなったレースを制したオリビエ・パニスが優勝。
「ホンダ第3期までの技術引き継ぎ」を目的にスタートした無限のF1プロジェクトは、次世代の3リッターエンジンを作り出し、F1で優勝するという快挙を成し遂げたのです。
結局リジェはアラン・プロストが買収したことで大幅に体制が変更。
チーム名も「プロスト」に改められました。
プロストはオールフレンチチームの存続の声が強まった中でリジェを買収した経緯から、98年からのプジョーエンジン供給が早々に決定。
97年はいわば「つなぎ」のような形で無限ホンダエンジンを搭載する格好となったことで、無限とチーム側の関係は良好ではありませんでした。
プロスト側は無限ホンダの搭載と引き換えに契約した中野信治を冷遇したり、無限側に無断でプジョーの関係者にエンジンを見せるなどしたことやりたい放題。
パニスが2度表彰台に上がるなど好成績を挙げていたものの、後味の悪いシーズンとなってしまいました。
ジョーダンと組みチャンピオン目前に迫った無限ホンダ
そしてこの時期になると、本家ホンダがF1復帰への動きを見せるようになっていました。
するとホンダは1998年の3月に、エンジンのみならずコンストラクターとしてもF1に復帰することが正式に発表。
これはホンダF1の技術の橋渡しが当初の目的だった無限のF1参戦が終わりに近づいていることを意味していました。
98年からジョーダンにエンジンを供給することになった無限は、自分たちに残されたチャンスが残りわずかであることを悟ると、シリーズチャンピオンを獲りにいくべくF1プロジェクトの予算上限を撤廃。
持っているすべての技術を投入したというそのエンジンを搭載した98年のジョーダン無限ホンダは、第13戦のベルギーGPでデーモン・ヒルが勝利を挙げる活躍を見せたのです。
すると翌1999年のジョーダン無限ホンダはさらなる躍進を見せます。
改良が重ねられた無限ホンダエンジン「MF301HD」のパワーはワークスメーカーのエンジンを凌ぐものだったといい、この年のジョーダンのマシン199と共に高パフォーマンスを発揮。
序盤からハインツ・ハラルド・フレンツェンが表彰台に登る活躍を見せると、第7戦フランスGP、第13戦イタリアGPでは優勝、第14戦ヨーロッパGPではポールポジションを獲得するなど、最終盤までフレンツェンがドライバーズチャンピオンシップを争う走りを見せたのです。
そして2000年には、本家ホンダがF1に復帰。
ジョーダンもエンジン使用料を支払う必要がある無限ではなく、本家ホンダエンジンの搭載を希望し、無限この年を最後にF1から撤退したのです。
自動車メーカーが莫大な資金とリソースを投入しなければ勝てない時代になりつつあったF1エンジンの競争の中で、
同時期に参戦したプジョーや後に参戦したトヨタでさえ達成できなかったF1優勝を4回も成し遂げた「カスタマーエンジンメーカー」無限の活躍はまさに偉業とも言えるものでした。