前身の全日本GT選手権時代から数えてスーパーGTに14年に渡り参戦し続けたホンダ、初代NSX。
GTに開発競争をもたらしたそのミッドシップピュアスポーツカーの参戦の歴史は、壮絶な規制との戦いでもありました。
今回はホンダNSXの全日本GT選手権/スーパーGTでの歴史とエピソードを解説していきます。
ホンダ初代NSXのスーパーGT/JGTCでの活躍の歴史を解説
「チューニングカーレース」に投入された「本物のレーシングカー」NSX
ホンダは第2期F1参戦を期に、フラッグシップスポーツカーの開発を進め、1990年にミッドシップピュアスポーツカーのNSXをリリース。
NSXはあのアイルトン・セナや中嶋悟など、F1ドライバーも参加して開発が進められ、当時市販車としては世界初のオールアルミモノコックボディーやミッドシップレイアウトを採用し、高性能な本格スポーツカーでありながら、快適性も両立していました。
一方、1994年から本格的にシリーズが発足したスーパーGTの前身、全日本GT選手権(JGTC)では、日産、スカイラインGT-Rが猛威を振るっていたグループA規定の全日本ツーリングカー選手権(JTC)や、トヨタが力を入れていたグループCカーレース、全日本スポーツプロトタイプカー耐久(JSPC)と入れ替わるような形で発足したこともあり、日産やトヨタは早い段階でJGTCにワークス体制で参戦していました。
しかし、ホンダは当時、ルマン24時間レースやJTCCなどのレース活動リソースを割いていたこともあり、NSXという運動性能の高いベース車両を持っていながら、発足当初のJGTCへ参戦することは無かったのです。
そんなNSXがJGTCにはじめて参戦したのは1996年。
しかしこの時持ち込まれたNSXはイギリスのTCPが1994年から95年のルマン24時間レース、GT2クラス向けに開発したマシンをJGTCの規定に合わせ改良した急造マシンでした。
ルマンにもこのNSXで参戦したチーム国光がこのマシンを走らせ、高橋国光と土屋圭市のコンビでGT500クラスに挑みましたが最高位は第4戦富士の7位。
GT-R、スープラ、マクラーレン、ポルシェと強豪ひしめく中で、ルマンGT2規定のマシンを無理やりJGTC仕様に合わせただけのマシンでは、いくらベース車両の運動性能が高いNSXといえど上位に食い込むことはできませんでした。
これを見かねたホンダはJGTCへの本格参入を決意。
1997年から専用設計のマシンを製作して改めてJGTCに参戦することになります。
ホンダはシャーシ開発を童夢に、エンジン開発を無限に依頼し、本田技術研究所がそれを支援するという体制を構築。
エンジンはV6 3.5リッターNAエンジンを量産車と同じく横置きで搭載しましたがターボエンジン搭載していたGT-Rやスープラに比べるとパワー不足感は否めず、そこをマシンの運動性能でカバーする方針を打ち出します。
当時のJGTCでは、車体全体のエアロダイナミクスについてそこまで重要視しているマシンはありませんでしたが、GT参戦にあたり製作されたNSXは空力効果を徹底的に追求。
童夢が所有するムービングベルト付き風洞をフル稼働させて研究が重ねられ、他メーカーが殆ど手を付けていなかったフロアの空力まで徹底的に突詰めて設計がされました。
また、ベース車両の大きな特徴でもあるアルミモノコックは、軽くて有利だと思われましたが、レーシングカーとしては剛性が足りず、ボディとロールケージを一部リベット結合し、ロールケージにカーボンを積層することでモノコックに固定、剛性強化を図りました。
さらに、サスペンションは本格レーシングカーさながらのインボード式を採用。
こうして1997年。
JGTC参戦用に専用開発されたホンダNSX-GTが完成。
無限×童夢プロジェクトとチーム国光から2台のNSXが投入され、当時まだチューニングカーの延長にあるようなマシンも多かったJGTCに「本格レーシングカー」のNSXが参戦を開始したのです。
思わぬ苦戦も…空力突き詰め初王座獲得!
こうしてJGTCに投入されたNSXですが、デビュー戦となった富士ではトラブルや接触に見舞われ2台が早々にリタイア。
その後もトラブルを頻発し、結果につなげることができず、最高位は第5戦MINE、第6戦SUGOで記録した2位。
優勝はお預けとなってしまいました。
当時のツーリングカーレースでは多少の接触は日常茶飯事で、多少の接触には絶えられる「強さ」が求められましたが、レーシングカー的な思想で設計されたNSXはそこそこ速さを見せたものの、接触に耐えながらレースを走り切ることをあまり考慮されていなかったためか、サバイバルなレース展開に脆く、耐久性や信頼性の面で他メーカーに劣ってしまっていました。
更に、MR車のNSXには規定により性能調整のハンデが課せられたため、ベース車両の運動性能をアドバンテージにしきれていないという問題もありました。
そこでホンダはNSXの設計を全面的に見直し。
信頼性を高めるための対策を施し、エンジン搭載位置やコクピットのシートの位置も下げられ低重心化が図られたほか、改良によりパワーも引き上げられました。
そして迎えた1998年。
この年から4台のNSXを投入してシリーズに挑むと、衝撃的な速さを見せることになります。
開幕戦鈴鹿ではNSXが予選で上位3位までを独占。
その後も毎戦ポールを獲得し続けると、第4戦富士でモービル1 NSXの山西康司/トム・コロネル組が優勝を果たし、NSXは念願のGT初優勝。
その後は最終戦までNSX勢が4連勝。
予選では全戦でポールを獲得する圧倒的な速さをみせたのです。
前半戦の取りこぼしが響きシリーズチャンピオンこそ逃してしまったものの、衝撃的な速さを誇ったシーズンとなりました。
しかし一転、1999年は前年に圧倒的な速さを見せたNSXに重い性能調整ハンデが課せられパワーダウンを強いられ苦境に立たされます。
さらに自らが焚き付けたGTマシンの開発競争も激化。
トヨタはスープラの足回りをNSX同様のインボード式を採用するなどレーシングカー化を本格化させ、前年王者の日産もR33と並行して走らせていたR34スカイラインGT-Rの開発を本格化。
さらにこのシーズンはNSX同士の接触も多発し歯車が噛み合わず、シリーズでは2勝。
この年もチャンピオンを逃す結果となってしまいました。
2000年はリヤ周りの空力パーツに規制が入り、空力性能に優れていたNSXにとっては不利とされていました。
これに対応するためNSXは新設計のマシンを投入。
パワートレインのレイアウト変更がなされた他、童夢による6000時間の風洞実験の末、なんと規制前以上のダウンフォースを生み出す空力マシンの開発に成功したのです。
この年はNSX勢全体ではシーズン4勝を上げる活躍を見せたほか、安定した速さを見せたカストロール無限NSX、道上龍が未勝利ながらシリーズチャンピオンを獲得。
本格参戦4年目でついにJGTC王座を獲得したのです。
壮絶な「NSX潰し」との戦いと禁断のターボ化
2001年には他社が新型シャーシを投入する中、前年型のシャーシを継続。
しかし、前年型のエアインテークにケチがつき禁止されたことで形状変化を余儀なくされると、各ドライバーたちはパワーダウンを訴えるようになりました。
この年はARTA NSXの土屋圭市/金石勝智や、前年王者のロックタイト無限NSXの道上龍/光貞秀俊がタイトルを争ったものの惜しくも届かず、続く2002年もモービル1NSX、松田次生/ラルフ・ファーマンがわずか1ポイント差でタイトルを逃してしまいます。
2003年には、JGTCの車両規定が大改定。
FR車両のトランスアクスル化が可能になりスープラとGT-Rは大きな利点を得た一方、前面投影面積によるハンデが追加され、NSXは+20kgのウエイトを積むことに。
更には空力規制とも言えるフロアのフラットボトム化の他、ミッドシップ車へのウエイトハンデも残されたため、NSXにとっては非常に厳しい車両規定改正となったのです。
しかし同時にこれまで規制されていたエンジンについて、自由なレイアウトが認められたため、NSXは利点の多い縦置き配置を決断。
そればかりがエンジンの前方にギヤボックスを配置し、シャフトを介しエンジン横を通過させ、エンジン後方のデファレンシャルへ伝達するという異例のレイアウトを採用したのです。
これは前後重量配分の改善を狙ってのもので、本来FR車がギヤボックスを後退させて搭載することができるように制定された、「ギヤボックスを搭載するためならキャビンの隔壁の改造を認める」という規則を利用し、ミッドシップレイアウトに適用した妙案でした。
しかし、この年のNSXは低迷。
2勝を上げたもののチャンピオン争いには殆ど絡むことができずに終わってしまいます。
するとNSXは2004年。
これまでこだわりを続けてきた量産車同様の自然吸気エンジンを捨て、V6ツインターボエンジンを投入。
しかしこのエンジンは熱害に悩まされ元のNAエンジンよりもパワーダウン、更にはターボ投入を見越してシャーシには殆ど手を入れずにシーズンを迎えたことから苦戦を強いられ低迷。
シーズン中盤には新エンジンを投入するもNSX勢のランキング最高位は8位と屈辱の結果に終わり、NSXにとっては苦境の時代が続いたのです。
ワイド化、NAの回帰で復活!悲願のタイトル奪還
JGTCがスーパーGTに変わった2005年もNSXの苦戦は続きます。
2005年には、マシンのワイド化を図るため専用設計が施された実質的なホモロゲーション取得用モデルである限定車「NSXタイプR GT」を5台販売し、それをベースにするという前年フェアレディZをGTに投入した日産と同様の手法を取ります。
さらに前年から不振が続いたターボを諦め、シーズン途中からNAエンジンを復活させました。
そして、NAエンジンへの回帰で速さが戻った2006年は、チャンピオンを獲得した2000年以来のシーズン4勝。
チャンピオン奪還の期待が高まっていったのです。
すると2007年。
この年の開幕戦、鈴鹿では予選上位4位までを独占。
ポールを獲得したARTA NSXはGTマシンとしては初めて1分50秒を切る驚愕のコースレコードを記録。
圧倒的な速さを見せつけると、この年はARTA NSXの伊藤大輔/ラルフ・ファーマンがシーズン3勝。
激戦のスーパーGTで最終戦を待たずにチャンピオンを決めるという異例の強さで王座を奪還したのです。
そして、スーパーGTでは2009年以降、駆動方式をFRに統一することが決定。
この年までは特例でNSXでの参戦を続けたものの、ホンダは翌2010年から量産車としてもNSXの後継車として開発していたFR車のHSV-010をGTに投入することを決め、初代NSXは(96年含め)14年に渡るスーパーGTでの参戦を終了しました。
GTでのNSXの戦いの歴史はレギュレーションとの戦いの歴史と言えるほど、不利な規則変更に悩まされ続けたJGTC/スーパーGTでのホンダNSX。
その中で掴んだ2度の王座と、衝撃的な一発の速さは技術者たちの知恵と努力の賜物でした。