日本のレース史をを語る上で欠かせない、日産GT-R。
各世代で多くの伝説を残してきたGT-Rですが、特に第②世代GT-Rの最初のモデルである、R32型スカイラインGT-Rは、グループAレースで無敗を誇るなど、圧倒的な強さを見せました。
では、その後継モデルであるR33型はどのような活躍を見せたのでしょうか?
今回はかつて全日本GT選手権(JGTC)に参戦したR33型スカイラインGT-Rの活躍を紹介していきます。
最強R32の後継としてレースシーンに登場したスカイラインGT-R R33
日産がR32の後継として開発した、R33型スカイラインGT-Rは、登場前からその走行性能に注目が集まっていました。
車両は先代にも搭載された2.6リッター直列6気筒のRB26エンジンや、革新的な4WDシステムのアテーサET-Sが先代モデルからより改良を施され採用され、先代では一部グレードのみに採用されていたブレンボキャリパーを全グレードに標準装備、競技仕様グレードのN1を設定するなど、よりスポーツ性を全面に押し出したモデルとなりました。
さらに、開発中のニュルブルクリンクでの、先代とのタイム差から、「マイナス21秒のロマン」というキャッチコピーも打たれ、注目を集めたのです。
日産ではもちろん、このR33を、R32の後継としてシリーズ発足から参戦していたJGTCに投入。
グループAベースのマシンを規定に合わせた先代と異なり、最初からJGTC参戦を念頭においたマシン開発が行われることになりました。
それまで、日産のレーシングカー開発は追浜のスポーツカー開発部門が担当していましたが、このR33が投入された頃から、日産のGT500(当時はGT1)車両はニスモで基本的な製作が行われたあと、プライベーターに供給されるという体制が確立。
GT仕様のR33は量産車のフレームをそのまま流用し、エンジンも量産車同様、RB26が搭載されましたが、ギヤボックスはシーケンシャルトランスミッションが採用されたほか、駆動方式も4WDからFRに。
これに伴い、サスペンションはマルチリンク式から前後ダブルウィッシュボーン式に変更されるかたちとなりました。
この年、日産ではR33でルマンに参戦する計画がありましたが、多くの仕様は共通化されており、GT仕様からブレーキをカーボン製に変更するなど、僅かな変更でルマン仕様に対応させる形をとっていたのです。
1995年のJGTCでは、ポルシェの最新GTマシン、911GT2など、有力な海外メーカーの車種を採用したプライベーターのほか、トヨタ、TRDがグループCカーのパーツを流用して開発、前年から試験的に参戦していたJZA80スープラが本格参戦を開始。
発足当初は、プライベーター中心のチューニングカーレースのような雰囲気があったJGTCも、当時の最新GTカーの投入や、ワークス体制の参戦が増え、熾烈な争いが予想されました。
日産勢は、開幕からR33を一部のチームに投入。
開幕戦鈴鹿では、新車のデリバリーが間に合わず、R32で走ったディフェンディングチャンピオン、カルソニック(ホシノレーシング)の影山正彦が優勝を果たしますが、ニスモワークスのR33を操った鈴木利男/飯田章組も着実に2位表彰台を獲得し、幸先の良いデビュー戦となりました。
第2戦以降は、プライベーターにも順次R33が供給されると安定した速さを披露。
この年は優勝こそなかったものの、安定して上位フィニッシュを続け6戦中4度表彰台に登った影山が見事JGTC連覇を達成。
GT-Rの伝説は引き継がれることになったのです。
熾烈なメーカー競争制し見事2度の王座へ
見事、デビューイヤーでのタイトル獲得となったR33でしたが、欲しかったのはやはり優勝。
GTでの初勝利を求め、1996年はさらなる進化を遂げることになります。
この年は、搭載したRB26エンジンをウェットサンプからドライサンプへ変更。
オイルパンを廃したことで軽量低重心化を実現したほか、重量バランスも改善、さらに、車高をより下げることができるようになったことで、空力効果も向上していました。
さらに、シャーシはロールケージの設計を見直し、カーボンによる補強を増やしたことで剛性アップ。
また、この年はリストリクターが絞られ、前年より厳しい規制となったものの、パワーは前年より向上。
この年は、スープラに加え、当時世界のGTレースで圧倒的な強さを見せていたマクラーレンF1 GTRがJGTCに参戦。
また、ルマンGT2規定をベースにした車両ではあったものの、ホンダのフラッグシップスポーツ、NSXもGTに初参戦を果たし、シリーズのレベルは急速に上がっていったのです。
するとこの年は、世界の大きな壁を感じるシーズンとなります。
この年は、星野一義/影山正彦組(インパル)が第4戦富士で優勝を果たし、R33でのJGTC初優勝を果たしますが、シリーズはチーム郷が持ち込んだ2台のマクラーレンが席巻。
前年ルマンを制したポテンシャルに国産勢は太刀打ち出来ず、日産は王座を明け渡す形となってしまったのです。
マクラーレンはJGTCを運営するGTアソシエーションとの対立から、1年限りで撤退となりますが、翌1997年はホンダがNSXで本格参戦を開始。
まだ市販車ベースの流用が多かったGTに、風洞をフル稼働させて空力性能を追求した専用設計のNSX-GTを投入し、トヨタも前年にスープラに搭載していた3SエンジンをグループCベースからGT専用設計に切り替えており、開発競争はさらに激化していたのです。
そんななか、この年のR33は細かいアップデートが中心となりましたが、エンジンは着実な改良が施されたほか、後に流行する立体形状のリアウイングを他メーカーに先駆け投入していました。
しかし、この年は新エンジンの恩恵から大きく戦闘力アップを果たしたスープラが強さを発揮。
R33は開幕戦鈴鹿で鈴木亜久里/エリック・コマス組のゼクセル(NISMO)が勝利を挙げていましたが、以降はスープラ勢が連戦連勝を重ね、この年もタイトルを逃す形に。
メーカー競争が激化したJGTCで、日産は苦戦していたのです。
翌1998年になると、3メーカーの開発競争は更に激化。
特に、前年に信頼性の問題があったNSXは設計を全面的に見直した新車となっておりチャンピオンの筆頭候補でした。
そんななか、日産もマシンの大幅な設計見直しを実施。
エンジン搭載位置を50mm後方に下げ、R33の課題であったフロントヘビーな重量バランスを改善。
空力はサイドダクトから空気を排出する設計を取り入れ、空気流を改善したほか、エンジンも従来より排気量が140cc大きいルマン用のものを改良した仕様に換装し、パワーは500馬力に到達。
トルク特性も大幅に改善し、ドライバーにも好評でした。
するとこの年は、ホンダ勢と熾烈なタイトル争いを展開します。
開幕戦鈴鹿では、NSX勢が予選上位を独占するなど速さを見せましたが、レースではトラブルなどでいずれも脱落し、4番手からスタートしたペンズオイルニスモGT-R、エリック・コマス/影山正美組が勝利。
コマス/影山組は、中止となった第2戦を挟み行われた、第3戦仙台ハイランドでも勝利を挙げ、チャンピオンシップをリードしたのです。
この年、速さでは空力性能を追求したNSXに分があり、予選ではホンダ勢に前を行かれることも多かった日産勢でしたが、NSXはトラブルの多さや、同メーカー内でのポイントの分散が響き、効率よくポイントを稼ぐことが出来ず。
第4戦以降はNSXが4連勝を果たし、この年の最多勝マシンとなりますが、いずれも違うチームであり、その中で着実に入賞を重ねたコマス/影山組が、見事チャンピオンを獲得。
さらに、ニスモもチームタイトルを獲得しR33は見事、激戦のJGTCで王座を奪還したのです。
そして、最強の遺伝子を受け継いだR33はその役目を終えることになります。
1999年の1月には、後継車であるR34型スカイラインGT-Rが登場。
日産のGTカーもこれに伴いR34ベースに切り替えられることになり、R33は退役となりました。
最強を誇ったR32とは異なり、必ずしも最速マシンではなかったものの、隆盛を極めていったJGTCにおいて参戦4年で2度のタイトルを掴んだR33GT-R。
その強さはGT-Rの名にふさわしいものでした。