言わずと知れた世界最高峰の四輪モータースポーツ、F1グランプリ。
巨額な資金が動き、影響力も絶大であることから時には物議を醸す事件やスキャンダルが度々起こります。
そんなF1ではかつて、「クラッシュゲート事件」という事件が発生しました。
クラッシュゲート事件とは、2008年にルノーの首脳陣が自チームのドライバーであったネルソン・ピケJr.に故意のクラッシュを指示し、セーフティーカーを意図的に出動させレース展開をコントロールすることで、チームのもう一台であったフェルナンド・アロンソを勝たせるように仕向けた事件です。
チームの首脳陣があろうことかドライバーに故意のクラッシュを指示するという、F1に大きな影を落とした前代未聞の事件はどの様に発生したのでしょうか。
この記事では、その経緯を解説していきます。
F1史上最悪のスキャンダル 「クラッシュゲート事件」とは?
【背景】栄光の時代から一転、低迷を続けていたルノー
2002年、ベネトンを買収する形でチームとしてF1に復帰したルノー。
チームにはかつてベネトンを率いたフラビオ・ブリアトーレがマネージングディレクターに就任し、2000年代中盤に躍進していきます。
彼が発掘したフェルナンド・アロンソをレギュラードライバーとして起用すると勝利を重ね、2005年、2006年には2年連続のダブルタイトルを獲得していました。
しかし、その後ルノーはしばらく勝利から見放されることに。
2007年にはアロンソがマクラーレンへ移籍。
さらに前年までチームにタイヤを供給していたミシュランがF1から撤退したことなどもあり苦戦を強いられ、未勝利に終わってしまいます。
翌2008年にはアロンソが復帰したほか、3度のワールドチャンピオンを獲得したネルソン・ピケの息子、ネルソン・ピケJrを起用するなど、テコ入れを図りましたが、成績は低調。
シーズンが終盤に差し掛かった段階でも優勝は1度もなく、この時点でのシーズン最高位は第10戦ドイツGPでピケJrが獲得した2位。
アロンソは表彰台にすら立てていませんでした。
ルノーはこの時点で2006年の第17戦日本グランプリ以来、約2年優勝から遠ざかっており、一部のメディアからはF1からの撤退報道まで出ていたほか、アロンソもパフォーマンスの上がらないチームに不満を抱え、チームを離脱するのではないかと噂され、チームとしてはどうしても結果がほしい状況でした。
【計画】ドライバーにクラッシュを指示…前代未聞の作戦画策
そんな中行われた2008年の第15戦シンガポールGP。
F1史上初となるナイトレースとしてシンガポールの市街地で初開催されたレースでした。
アロンソは初開催で誰もが手探りなこのレースで初日から好調をキープ。
全3回のフリー走行のうち2回でトップタイムを記録し、予選Q1も6位で通過。
久々に上位を争えるパフォーマンスを披露していました。
しかし、Q2ではアロンソのマシンに電気系トラブルが発生しタイムを出せず、Q2敗退。
予選15番手に沈み水をさされる形となっていたのです。
去就問題に揺れるアロンソを引き止めるためにも、なんとかチャンスのあったこのシンガポールで彼に好成績を収めてもらいたかったチーム側でしたが、最悪のタイミングで痛恨のトラブルが出てしまったのです。
そこでチームはとんでもない作戦を画策します。
決勝レースの直前、チーム代表のブリアトーレと、チームのエグゼクティブディレクター、パット・シモンズは予選でQ1敗退に終わり下位に沈んだピケJrを呼び出すと、「チームのためにレースを犠牲にするつもりはあるか」とピケJrに訪ねたのです。
チームはアロンソを上位に送り込むことを目論み、アロンソにとって都合のいいタイミングでセーフティカーを出動させるためピケJrにわざと事故を起こさせることをを要求。
F1ルーキーだったピケJrは当時、翌年以降の契約を巡ってブリアトーレから日常的に圧力をかけられており、自身がF1に留まれるかどうか、不安を感じている時期でした。
翌年のシートが保証されていなかったピケJrは、翌年もF1に留まるためにチーム側のこの提案を承諾。
するとシモンズはピケJrにクラッシュするコーナーやタイミングを具体的に指示。
チーム側の計画では序盤軽い燃料タンクでアロンソがなるべく重いマシンを抜き順位を上げたあと、誰よりも早くピットに入り、ピット作業を済ませた直後に、クレーン車などが近くに無く、マシンの排除が難しいターン17でピケJrをクラッシュさせてセーフティカーを出動させる作戦でした。
当時のレギュレーションではセーフティカー出動後、後ろで隊列が整うまではピットに入れないルールになっていたため、先にピット作業を済ませておけば、SCの出動後にピットロスタイム分の差を詰めることができたのです。
こうして前代未聞のクラッシュ作戦は実行されることになりました。
【実行】予定通り実行された作戦
こうして、2008年シンガポールGPが始まります。
アロンソは予定通り軽い燃料タンクとソフトタイヤでスタート。
前方でワンストップ戦略を取っていたヤルノ・トゥルーリのペースが上がらず、渋滞につきあわされる形になってしまったものの、順位をスタート時の15番手から11番手まで上げていました。
そして12周目、本来の作戦通りアロンソがピットインを済ませコースに復帰。
この時点で最後尾下がり、前方のマシンとはピットのロスタイム分の差が出来ていました。
そして13周目、ピケJrが予定通り、ターン17でクラッシュ。
ピケJrはこのコーナーをオーバースピードで侵入することでスピン状態を作り出し、そのままスロットルを踏み続けてリアをアウト側のウォールにヒット。
反動でイン側のウォールに激しくクラッシュしたのです。
そして、レースはこの事故によりチームの目論見通り、セーフティカーが出動。
直前にピットに入っていたアロンソはSC出動で隊列の間隔が詰まったことでピットストップのロスタイムを丸々帳消しに出来たほか、隊列が整ったあとにピットレーンがオープンになったあとに前を走るマシン達が続々とピットに入ったため5位まで順位を上げることに成功したのです。
更に、前を走るニコ・ロズベルグ、ロバート・クビサは、SCのタイミングが悪くガス欠の恐れがあったため、ピットクローズ中にやむなくピットインをして給油を行っており、後にペナルティが課されることが決まっていました。
結局、二人がペナルティで後退し、まだピット作業を済ませていなかったトゥルーリらがピットに入るとアロンソはついにトップに。
その後は後方のアクシデントで再びセーフティカーが導入されるなどの混乱もあったものの、アロンソは最後までレースを支配しトップでチェッカー。
ルノーにとっては約2年ぶりの優勝を手にし、ルノーの禁断のクラッシュ作戦は成功。
周囲はピケJrが故意にマシンをクラッシュさせたことなど知る由もなく、初開催のシンガポールGPは単なる劇的な結果が起こったレースの一つとして扱われていたのです。
【判明】突如明るみになった「クラッシュゲート事件」
しかし、レースから約1年後、突如真相が明るみに出ることになります。
2009年、ルノーに残留を果たしたピケJrでしたが、この年は競争力の無いマシンで低迷。
アロンソが前半戦で5回入賞を果たしたのに対し、ピケJrはポイントを獲得出来ないレースが続き、第10戦ハンガリーGPを最後にシーズン途中でチームを解雇されていました。
するとピケJrはブラジルのテレビ番組へ出演した際、「シンガポールGPでのクラッシュはチームの指示だった」と発言。
当初はピケJrが解雇された腹いせにこのようなコメントを行っていると受け止められていましたが、ピケJrはその後正式にこの事件をFIAに告発。
その際、供述書のコピーや無線のやり取り、ピケのテレメトリーデータがメディアに流出したことで一気に事件の真相が明るみになり、クラッシュゲート事件として大きな騒動に発展したのです。
当初、故意のクラッシュであることを否定していたブリアトーレやシモンズはその後、故意であったことは認めた上で、ピケJrから契約延長を条件にクラッシュさせることを提案されたと主張し、ピケ側に対して法的措置を取るとしていましたが、ルノーチームは事件の影響の大きさを考慮しブリアトーレとシモンズを解雇。
その後、世界モータースポーツ評議会の場でこの件が審議された結果、ルノーには2年間の執行猶予付き参戦資格の剥奪、ブリアトーレはFIA統括のモータースポーツから無期限の追放、シモンズは5年間の追放処分が下されたのです。
チームが所属ドライバーにクラッシュを指示するという、前代未聞の事件の影響は大きく、ルノーのメインスポンサーだったINGグループはチームへの支援を打ち切り。
ルノーは翌2010年を最後に一旦F1チームの運営から手を引き、チームの株式を売却。
2011年からはロータス・ルノーGPとして参戦することになりました。
また、事件を告発したピケJrは、真実を明らかにしたとして処分を免除。
当初はF1への復帰を目指していましたが、F1で好パフォーマンスを見せれていなかった事に加え、クラッシュゲート事件の実行犯としてのネガティブなイメージから興味を示すチームがなく、F1への復帰は叶わず、その後はアメリカのNASCARやフォーミュラEなどに活躍の場を移す事になりました。