みなさんは日本でレーシングカーの開発や製造を手掛け、スーパーGTやル・マン24時間レースなどに参戦していたことでもおなじみの童夢がF1マシンを制作し、参戦を計画していたことをご存知でしょうか。
自動車メーカーのワークスチーム以外で日本のF1コンストラクターといえば、鈴木亜久里が2006年に創設したスーパーアグリが有名ですが、
童夢のF1プロジェクトが実現していれば、90年代に夢のオールジャパンチームが誕生していた可能性があったのです。
今回は、幻の童夢F1参戦計画について解説していきたいと思います。
童夢のF1参戦計画を解説
日本の名門コンストラクター「童夢」とは?
童夢は元々レーシングカーの製作を行っていた林みのるが、1975年に設立したレーシングカーメーカーです。
創業当初は市販スポーツカーの製造、販売も企画しており、
1978年には、実際に販売を想定したスポーツカー、「童夢 零」や「童夢P2」が製作されましたが、当時の運輸省(現 国土交通省)が生産を許可しなかったため実現しませんでした。
1979年からはル・マン24時間レースに参戦すると、F3やF3000などのフォーミュラーカーを含むレーシングカーの開発・製造を多数手がけ、
レーシングチームとしても国内外問わず様々なレースに参戦を続けてきました。
F1参戦プロジェクト発足
1995年、童夢は自社製造のF1マシンと純日本体制のチームでF1への参戦を目指す、「F1GP NIPPONの挑戦」と題するプロジェクトを発表します。
すると童夢は、ミナルディのチームマネージャーを務めた経験のある、佐々木正を迎え入れ
佐々木のF1界でのコネクションを活かし、F1マシン製作のためのノウハウを集めていきます。
1996年の3月にはF1のレギュレーションに合わせて製作されたプロトタイプマシン「F105」を発表。
「F105」には、1995年にリジェに搭載された無限V10エンジンを搭載していました。
テストドライバーにはF1での参戦経験もあったマルコ・アピチュラや、童夢からフォーミュラ・ニッポンに参戦していたF1デビュー前だった中野信治を中心に、
脇阪寿一、服部尚貴、黒澤琢弥など、当時の国内トップドライバーたちが起用され、精力的にテストを重ねました。
テストの実施に際してはタイヤ供給で問題が発生。
当時は日本のブリヂストンが1997年からのF1へのタイヤ供給の開始を見据え、テストを敢行していた頃。
すでにF1へタイヤ供給を行っていたグッドイヤーは、童夢がブリヂストンへタイヤデータやノウハウを漏らすことを警戒し、当初はテスト用のタイヤ供給を拒否していました。
最終的には佐々木が交渉に出たことで、グッドイヤーからタイヤの提供を受けることになりますが、
それでも最新スペックのタイヤを供給してもらえず、童夢に供給されたのは1年落ちのスペックのものでした。
童夢F105の鈴鹿でのベストタイムは1分46秒27。
これは当時F1の予選落ちの基準タイムである、「107%ルール」の基準タイムに0.3秒満たないものでしたが、タイヤスペックやドライバーを考えると、決して悪くないタイムでした。
オールジャパン構想破綻
当時の日本企業はこの童夢のプロジェクトにほとんど関心を示さず、スポンサーにはワコール、セブンイレブン、家庭教師のトライなどがついていたものの資金が足りず、童夢は当初予定していた1997年からのF1参戦を断念。
また、マシンについても速さはともかく、信頼性の問題でとても実戦投入できる段階にはありませんでした。
関係者の中には童夢の名前と掛けて、絶望的を意味する「Doomed」(ドゥームド)と影で呼んでいた者もいたといいます。
さらに童夢は、当時参戦していた全日本GT選手権(現 スーパーGT)や全日本ツーリングカー選手権の参戦車両開発も請け負っており、F1マシンの開発が思うように進まず、
97年には既存シャーシに改良を加えたF105iでテストを繰り返しますが、凄まじいスピードで進歩が進むF1の世界で1年落ちの設計のマシンでF1に挑むのは現実的ではありませんでした。
代表の林は「当初は日本の技術でチャレンジしたかったが、日本企業があまりに注目してくれないのでモチベーションを失った」と語り、97年後半には「オールジャパン体制」での参戦を諦め、国外の企業とも提携に向けた動きを展開していきました。
F1参戦断念
童夢は参戦資金を求めて、当時F1参戦を目指していたナイジェリアの実業家、マリク・アド・イブラヒム王子にコンタクトすることになります。
マリク王子は自身がチームを立ち上げ、童夢がマシンを提供する体制で1999年からのF1参戦を求めましたが、最大のネックはマシンに搭載するエンジンでした。
童夢のテストマシンにエンジンを供給していた無限ホンダは、本家ホンダのF1参戦計画が進んだ事による政治的な理由で、最終的にはマリクのチームへエンジン供給を断念。
これにより童夢はマリクとのジョイントを諦めました。
並行してオランダの投資グループと組んでミナルディチームを買収する計画も持ち上がりますがこれも実現せず、
そうこうしているうちにホンダがコンストラクターとしてF1に復帰する計画が発表されたことで童夢は参戦意義を失い、とうとうF1参戦計画は完全に頓挫してしまうのです。
これにより、日本のレーシングコンストラクターによるF1参戦は幻のものとなってしまいました。