F1に参戦したことのある日本のメーカーといえばホンダとトヨタ、
エンジンサプライヤーとしては無限ホンダやヤマハが有名ですが、じつは他にも多くの日本車メーカーがF1エンジンを開発していました。
今回はかつてF1エンジンを開発していた日本のメーカーのプロジェクトについて解説していきたいと思います!
実はF1のエンジンを開発していた日本のメーカー
いすゞ
かつてはトヨタ自動車、日産自動車と並び日本自動車業界の御三家と呼ばれていたいすゞ自動車。
戦前から、ディーゼルエンジンの開発を得意としており、ディーゼル車の生産では日本を代表するメーカーでした。
1990年代初頭、いすゞは自社のガソリンエンジンの技術力の把握と、ガソリンエンジン開発の技術力向上を目的にF1用エンジンの開発を計画。
この計画はF1の実戦へ参戦を目指したものではなく、当初はベンチテストだけで終了する予定でF1マシンに搭載して走行テストを行う予定はありませんでした。
1990年の12月にエンジンの1号機が完成。
当時のF1の規格に合わせ、3.5LのV12企画で製作されました。
改良を重ねた翌1991年の2月には無事ベンチテストが行われ、ここで計画は終了する予定でした。
しかしこのベンチテストの結果が技術者たちの予想を超える結果だったことで「実際にF1マシンに搭載したらどうか」という案が持ち上がるようになりました。
いすゞは当時提携していたイギリスのロータス・カーズの関連会社であった、F1の「チーム・ロータス」に協力を依頼。
1991年のロータスのマシン、102BはV8のジャッドエンジンを搭載しており、いすゞV12エンジンを搭載するためにベルハウジングやエンジンマウントなどを改造し、チームはこのテストのためだけに「ロータス102C」を製作。
7月末にシェイクダウンテストが行われたのち、8月6日にはジョニー・ハーバートが乗り込みシルバーストーンでのテスト走行を敢行。
同日にテストを行っていたマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナから6秒落ちのタイムだったといいます。
テスト走行はこれっきりに終わり、いすゞのF1エンジンプロジェクトは終了。
F1関係者からは実戦投入を渇望する声もありましたが、当初の予定通りいすゞエンジンが実戦に投入されることはありませんでした。
スバル
水平対向エンジンでおなじみのスバルは実際にグランプリの出走までこぎつけたことで有名です。
スバルのF1プロジェクトが持ち上がったのはバブル真っ只中にあった1986年。
童夢の林みのるにイタリアのレーシングエンジンの製造会社、モトーリモデルニを紹介されたスバルは、
紆余曲折を経て、同社と共同開発でスバルのアイデンティティとも言える水平対向のF1エンジンを開発しF1に参戦する計画が発足。
スバルがエンジン搭載先に選んだのはイタリアの新興チーム、コローニ。
スバルがコローニの株式を半分買取り、1990年から「スバルコローニ」としての参戦が決定。
そして迎えた1990年、アメリカGP。
予備予選でトップが1分30秒台で周回する中、コローニのマシンはトラブルでまともに走ることが出来ず、計測されたタイムは5分15秒。
当然ながら予備予選落ちとなり、前途多難なスタートとなると、その後も第8戦イギリスGPまで連続で予備予選落ち。
決勝はおろか予選にすら進出できない事態となってしまいます。
水平対向エンジンは低重心化が図れるというメリットがあったものの、構造上エンジンが横に広くなってしまい、当時のF1の設計思想と合っておらず、
さらにこのスバルF1エンジンは「ダブルベッド」と揶揄されるほど大きく重いエンジンとなってしまっていたためパフォーマンスを発揮することが出来ませんでした。
結局、スバルはこのイギリスGPを持ってコローニとの提携解消を決めF1から撤退。
一度も決勝レースには出走することはなく姿を消しました。
スズキ
二輪車や軽自動車をメインに製造・販売を行い、MotoGPではおなじみのスズキも、かつてはF1への参戦を計画していました。
1990年代初頭、スズキではF1エンジンの開発を行う極秘プロジェクト、「プロジェクトR4」がスタート。
プロジェクトリーダーは名物エンジニア、横内悦夫が務めていました。
1991年に開発・製作されたスズキF1エンジン「YR-91」は3.5L V12型エンジンで、
ベンチテストではあのマクラーレン・ホンダに搭載されたホンダRA121Eに匹敵する、730馬力を発生していたといいます。
そしてレイトンハウス・マーチがこのプロジェクトの話を聞きつけると、スズキと提携の交渉を開始。
1992シーズンからチームをスズキに売却しF1にエントリーすることがほぼ決まっていました。
しかし、当時のレイトンハウスのオーナー、赤城明が不祥事を起こしたことや、バブル崩壊による日本の景気停滞も重なり、最終的には実現しませんでした。
HKS
現在はチューニングパーツメーカーとして有名なHKSもF1エンジンを開発したことがあります。
HKSは1970年代に市販のボルトオンターボチャージャーがヒットしたことで成長を続けますが、
1980年代中盤頃からは時代の流れを受けてNAエンジンの技術向上への取り組みを行っていました。
そんな中、F1が1989年にターボエンジンを全面禁止を打ち出すと、HKSは1990年1月、完全オリジナルのF1エンジンの開発プロジェクトをスタートします。
HKSは約1年半の開発期間を経て1991年の6月に、
3.5L V12のF1エンジン「300E」を完成させました。
この後もテストを重ね、さらに1年半後の1992年12月にはF3000マシンにこの「300E」を搭載し、富士スピードウェイで実走行テストが行われました。
タイムは当時のF3000のコースレコードから5秒落ちという結果でしたが、チューニングメーカーが作り上げたF1エンジンは話題を呼びました。