80年代後半から90年代初頭にかけて、F1ブームとバブル景気に湧いた日本の企業が多数F1に関与していました。
そんな時代にF1チームのアロウズ買収しチーム運営に乗り出したフットワークという企業が存在しました。
今回は90年代初頭にアロウズを買収してF1に参戦したフットワークチームの歴史とエピソードを紹介していきます。
かつてアロウズを買収してF1に参戦した日本企業フットワーク
フットワークとは…バブル末期にF1チーム買収した日本の運送会社
1978年からF1に参戦を開始したアロウズは、長く中堅チームとしてF1で活躍していました。
1987年からはBMWのカスタマーエンジンである、メガトロンエンジンを搭載したことで、上位進出の回数が増え、1988年のイタリアGPではエディ・チーバーが3位表彰台を獲得するなど躍進。
チーム創設以来最高となるコンストラクターズランキング5位(ポイント数は4位ロータスと同じ)を獲得していました。
そんなアロウズのメインスポンサーとなったのが、
かつて日本運送の名で日本で初めて長距離定期路線便を運行させるなどして事業拡大を続け、1990年に社名を変更し運輸事業の国際進出を目論んでいたフットワークでした。
当時の日本では1987年から始まった鈴鹿サーキットでの日本GPの開催やフジテレビF1中継の開始、ホンダや日本人ドライバーの参戦もありF1ブームに沸いており、バブル景気の勢いも重なり、多くの日本企業がF1に参入しており、チームやドライバーのスポンサードにとどまらず、チーム経営に乗り出す企業も現れました。
そんな中フットワークは1990年にアロウズのメインスポンサーとなると、後にチームを買収し経営権を取得。
1991年からチーム名をアロウズからフットワークに変更して参戦することになったのです。
満を持してF1参戦も、ポルシェエンジンが期待はずれで散々な結果に…
91年から満を持して自社名を冠してF1に参戦することになったフットワークは、上位進出狙うため多額の契約金を支払いポルシェエンジンの供給契約を取り付けたのですが、これが大失敗。
ポルシェがフットワークのマシンに搭載するために独自開発したはずの3.5リッターV12の「3512エンジン」はかつてマクラーレンへの供給を見据えて開発したV6ターボエンジンのターボチャージャーを取り払い、縦に2基並べて無理やりV12NAエンジンとしたとんでもない代物でした。
重量も190キロと、ライバルメーカーのエンジンより数十キロ重く、その上パワーや信頼性もないという酷い有様。
パワーは当時プライベーターチームを中心に重宝された数年落ちのフォードコスワースV8カスタマーエンジン(DFR)よりも低かったといいます。
さらに実際にエンジンがチームに納入されると、エンジンの寸法が事前にチームに伝えられていたサイズと異なっていたため、チームはシャーシ側の設計を変更する事態となりました。
この年のフットワークはアレックス・カフィ、ミケーレ・アルボレートの実績あるドライバー二人を起用。
マシンは前年のアロウズA11をベースにしたFA11CにこのポルシェV12エンジンを搭載し序盤戦を戦いましたが、あのロス・ブラウンがデザインした素性の良いA11の特性を重いポルシェエンジンが台無しにしてしまい、カフィが開幕2戦連続で予選落ち、アルボレートも第2戦で予選落ちを喫してしまいました。
チームは第3戦から新車FA12を投入しましたが状況は変わらず、カフィは第4戦まで連続予選落ち。
第5戦から代役として起用されたステファン・ヨハンソンも第6戦で予選落ちを喫してしまいます。
アルボレートは第4戦モナコGP以降、3戦連続決勝に進出したものの今度はエンジンの信頼性が足を引っ張りこれらのレースをすべてリタイア。
ポルシェエンジンは大きな足かせになってしまった他、モナコGPではカフィのマシンがエンジンの振動に耐えきれず走行中に分離してしまい、クラッシュを喫してしまうという危険な状況にも陥りました。
この散々な状況にチームはポルシェエンジンの使用を諦め、第7戦フランスGPからフォードV8 DFRエンジンを搭載。
しかし、V12エンジンの搭載を想定して設計されたFA12にV8エンジンを載せたことでバランスが悪化し、シーズン後半まで予選落ちを繰りかえすことになり、チームはアロウズ時代に一度も無かったノーポイントでシーズンを終えることになってしまったのです。
無限ホンダ搭載、亜久里加入で日系チーム化
最悪のシーズンを過ごしたフットワークは翌1992年。
この年F1に参入した無限ホンダV10エンジンを搭載。
この無限ホンダエンジンは1989年から1991年までマクラーレンやティレルが使用したホンダRA101Eを引き継いだものでした。
さらにアルボレートのチームメイトとして、F3000時代にフットワークがスポンサードしていた鈴木亜久里を起用。
日本色の強いチームに生まれ変わったのです。
この年の新車、FA13はデザインを一新。
前年旋風を巻き起こしたジョーダン191に似たノーズからフロントウイングが湾曲した形状を採用し、Iパターンシフトのシーケンシャルトランスミッションも導入しました。
この年はアルボレートが第3戦から3戦連続で入賞を果たすなど、前年に比べれば大幅な改善を果たしましたが、亜久里はFA13の空力特性との相性が悪く、第2戦メキシコGP、第7戦カナダGPで予選落ちを喫するなど苦戦。
ノーポイントに終わってしまいました。
翌1993年はアルボレートに変わりデレック・ワーウィックを起用し、シーズン途中にはマクラーレンからアクティブサスペンションなどのハイテクシステムを購入し搭載するなどし大幅な戦闘力アップを果たしたものの、信頼性の問題でリタイアを連発。
ワーウィックが2度入賞するにとどまりました。
F1チーム運営が本業経営圧迫し破綻
初年度の悪夢から、3年間のF1参戦で、少しづつ改善を繰り返してきたフットワークですが、その裏では別の大きな問題が進行していました。
フットワークは91年からのF1チームの運営に会社の利益の多くををつぎ込んでいた事や、海外進出のため出資したドイツの運送会社が経営に失敗したことで、本業の運送業の経営を圧迫していたのです。
これを受けてフットワークは93年限りでF1チームの運営から撤退。
翌1994年から、チーム名もアロウズに戻ります。
コンストラクター名としては1996年までフットワークの名が残されたものの、同年にトム・ウォーキンショーがチームを買収したことでフットワークの名は完全にF1から消えることになりました。
その後フットワークは日本で事業を続けたものの、経営状態は改善せず、2001年に民事再生法が適用。
事実上の倒産となり、その後事業は別会社に譲渡されました。
フットワークはF1チーム運営などをきっかけとした経営難を立て直すことができず、その歴史に幕を閉じたのです。