こんにちは、今回は、70年代にF1に参戦した謎の日本チーム「マキ」についてご紹介します。
その謎に包まれたチームの歴史や、挑戦の舞台裏を探っていきましょう。
70年代にF1に参戦した謎の日本チーム「マキ」とは?
部品を買えば参戦できた70年代のF1
1960年代後半、F1のエンジン規則が3リッターに引き上げられたことを受け、ロータスとコスワースはフォードの資金援助を受けて、フォードコスワースDFVエンジンを開発しました。
このエンジンは、ロータス49に搭載され、熟成が進んだ1968年にはチャンピオンを獲得しました。コスワースはF2用のエンジンを結合してV8化し、軽量コンパクトを実現しました。DFVエンジンの市販化は多くのプライベーターチームにとって強力な武器となり、ヒューランド製ギヤボックスとの組み合わせでF1界に普及しました。
同時期、航空技術を応用したアルミモノコックシャーシがF1に普及し、航空会社がそのノウハウを生かしてレーシングカーのシャーシ開発に参入しました。
イギリスの有力な航空関連会社はF1チームにアルミモノコックシャーシを供給し、自社でマシンを開発しなくてもほとんど市販品のみでF1に参戦できる環境が整いました。
これにより、小規模コンストラクターがF1に参戦するハードルが下がり、DFVエンジンとヒューランドミッションを搭載していないチームはほとんどなくなり、「キットカー時代」と呼ばれる時代が訪れました。
キットカー時代に現れた日本のF1チーム「マキ」
1970年代中盤、国内レース車両の設計を手掛けていた三村健治は有力なスポンサー企業から資金援助を受け、「マキ」という名のF1参戦プロジェクトを発足させました。
三村がボディデザインを担当し、シャーシはシグマでマシン設計を行なっていた小野昌朗が担当。
エンジンにはフォードDFVを搭載し、F101と名付けられたマシンは1974年に発表されました。
しかし、スポンサー企業がマルチ商法を取り扱う会社であることや、日本で実績のないコンストラクターがF1に参戦することへの批判を恐れたため、スタッフ名をすべて偽名で発表し、情報もほとんど明らかにされませんでした。
F101のデザインは、前輪を覆い隠すスポーツカーノーズに、流線型のウインドウスクリーン、砲弾型のインダクションポッドなど、他のF1マシンに類を見ない独特なデザインで登場しました。
ドライバーにはハウデン・ガンレイと新井鐘哲が起用され、新井は速水翔という偽名で起用されましたが、実績不足でライセンスの発行が認められず、テストドライブのみに留まりました。
マキのF1プロジェクトは極秘に進められ、日本でも事前に情報を得ていた者はほとんどおらず、情報伝達手段が限られていた当時、海外で謎の日本人とコンストラクターがF1参戦を発表するという事態に衝撃が走りました。
F1参戦も苦難の道
こうしてF1参戦への準備が着々と進められたマキのF1プロジェクトでしたが、参戦前から苦難に直面することになります。
ライバルたちはレギュレーションの抜け道を掻い潜り暗黙の了解でマシンの軽量コンパクト化を図っていましたが、F101は素直に規則を守って製作されたためライバル達のマシンより車重が80kgも重くなってしまっていました。
さらに、マキに資金を提供していたスポンサー企業の経営状況が悪化。
チームに予定の資金が支払われなくなっており、参戦を前にしてすでに資金難に陥ることになってしまったのです。
これによりマキは当初予定していた1974シーズンの全戦参戦を断念。
計画を変更しマシンの大幅な軽量化を図ってテストを繰り返したことでF101Bが完成し、なんとかレース出走にこぎつけ、第10戦のイギリスGPでようやくデビュー戦を迎えたのです。
しかし、初参戦を果たしたこのイギリスGPでは、ガンレイがポールポジションのニキ・ラウダから4秒落ちのタイムに終わりあえなく予選落ち。
更に翌第11戦西ドイツGPでは予選中にサスペンショントラブルでガンレイがクラッシュを喫し、大怪我を負ってしまったことでレースを欠場。(記録は予選落ち)
シーズンの残りのレースも欠場することになり、マキはわずか2戦で参戦1年目を終えることになったのです。
翌1975年は参戦が危ぶまれたマキでしたが、スポンサーにシチズン時計がついたことでなんとか活動を継続。
ドライバーに当時ルマン参戦のためヨーロッパに滞在していたトヨタの元ワークスドライバー、鮒子田寛や、元イギリスF3チャンピオンのトニー・トリマーを起用してスポット参戦することになりました。
第8戦オランダGPでは、鮒子田が予選を通過する走りを見せたものの、マシントラブルで決勝の出走を断念。
続く第9戦イギリスGPでは予選落ちに終わりレースを走ることは叶わなかったものの、鮒子田はF1にエントリーした初の日本人ドライバーとなりました。
その後3レースにエントリーしこちらはトリマーがドライブしたものの、やはり予選を通過することはできず、結局この年もマキのマシンがF1の決勝レースを走ることはありませんでした。
シーズン終了後、小野は翌年のマシン、マキF102の開発を進めていましたが、資金調達のため日本に帰国していた三村から資金が送られて来ず資金の枯渇から計画は行き詰まります。
一方、三村は小野とは別に密かにF102Aという独自マシンの開発を構想。
この時点で全く異なる2つの新車開発計画が進んでおり、チームは事実上分裂状態にあったのです。
結局最終的には小野がチームを離脱。
翌1976年は三村中心の体制でF1への挑戦を続けることになります。
そしてこの年は富士スピードウェイを舞台に日本で初めてF1が開催されることが決定。
三村はこのレースに照準を合わせ、海外ラウンドには参戦せず新車開発に注力。
同年の最終戦である、母国開催のF1インジャパンで初の決勝進出を目指しました。
新設計のF102Aはモノコックに三角断面構造を採用し、大きく軽量化を実現、平行配置式のラジエーターを採用するなど、マキの集大成といえるマシンでした。
そして迎えた76年の最終戦、F1インジャパン。
ドライバーは前年に引き続きトリマーを起用して挑みましたが、トラブルでまともにタイムアタックを行うことができずあえなく予選落ち。
結局マキは最後まで決勝進出の壁を破れず、この年限りでF1参戦活動を終了することになったのです。
日本で初めてF1に参戦したプライベーター、マキのF1挑戦は、決して成功と言えるものでは無かったものの、その偉大な挑戦は今でも伝説として語られ続けています。