F1

【日本人初のF1フル参戦】偉大すぎる中嶋悟のレースキャリアを振り返る

nakajima_1987

34歳でF1にデビューし、日本人で初めてF1にフル参戦を果たした中嶋悟。
多くの日本人の夢を切り開いたその挑戦は、大変過酷で偉大なものでした。

今回は、日本人初のF1フルタイム参戦ドライバー、中嶋悟のレースキャリアを様々なエピソードと共に紹介していきます。

偉大すぎる中嶋悟のレースキャリアを振り返る

資金繰りに苦しんだ下積み時代から国内トップへ

1953年、愛知県岡崎市に生まれた中嶋悟。
レーシングカートを始めたのは高校生のときでした。

高校を卒業した中嶋は、アルバイト先だった身内のガソリンスタンドに就職。
カートから4輪レースへのステップアップを目指した中嶋はガソリンスタンドでレース参戦資金を貯めたといいます。

そして1973年、20歳のときにレースデビュー。
1975年にはFL500でシリーズチャンピオンを獲得しましたが、働きながら参戦資金を稼ぐには限界があり、
資金不足に苦しんでいた中嶋はこの頃、レース活動を継続するかどうか悩んでいたといいます。

そんな中、中嶋がレース活動休止を検討していることを知ったエンジンチューナーの松浦賢が、その素質を惜しみ、当時国内レース界でトップチームとなりつつあった「ヒーローズレーシング」に中嶋を売り込みます。

するとヒーローズレーシング側もこれを受け入れ、中嶋は土壇場で1977年からの全日本F2000選手権、FJ1300のシートを獲得。

FJ1300では全7戦でポールポジションを獲得し、レースでは全周回でトップを走る圧巻の走りでチャンピオンとなりました。

翌1978年には鈴鹿F2選手権のチャンピオンを獲得し、イギリスF3選手権にもスポット参戦。
翌年には富士GCシリーズのチャンピオンも獲得し、中嶋は着実にトップドライバーへの道を進んで行ったのです。

すると中嶋は国内で圧倒的な強さを見せていきます。

チームを移籍して2年目の1981年に初めて、全日本F2でチャンピオンを獲得すると、1984年には自身の会社「中嶋企画」を立ち上げて参戦。
マシンはヒーローズレーシングから提供を受ける形で参戦すると、この84年から86年までの全日本F2を3連覇。

圧倒的な強さを見せつけたのです。

また、1985年と86年にはル・マン24時間レースや世界耐久選手権にエントリーしました。

またこの頃ホンダとの関係が強くなっていった中嶋は、1984年からホンダがエンジンを供給していたF1のウイリアムズのテストドライバーを務めるようになっていきました。

34歳でF1デビュー、日本人初のF1フル参戦

1986年、ホンダエンジンがF1で最強のエンジンと言われ始めていた頃、ホンダは供給チームの拡大を決定します。

翌1987年からロータスへのエンジン供給が決定されると、ロータスのレギュラードライバーとして中嶋が起用されることになります。

ホンダは当初、中嶋がテストドライバーを務めていたウイリアムズに中嶋をレースドライバーにするよう掛け合っていましたが折り合いがつかずこれは実現しませんでした。

翌年からF1デビューが決まった中嶋は、F1へのステップアップを見据え、全日本F2に参戦する傍ら、ヨーロッパでF1のサポートレースとして開催されていた国際F3000にスポット参戦。

そして、10年ぶりに日本GPの開催が決定し、フジテレビがF1の全戦中継を開始した1987年、中嶋は34歳でF1にデビューしたのです。

チームメイトは85年からチームに在籍し、次期チャンピオン候補と目されていたあのアイルトン・セナでした。

デビュー戦となった開幕戦、ブラジルGPでは7位を獲得すると、続く第2戦サンマリノGPでは6位に入り初入賞。

第7戦イギリスGPではこの年の最高位となる4位入賞を果たし、表彰台へあと一歩活躍を見せましたが、チームメイトのセナが2勝を挙げ57ポイントを獲得したことに比べると見劣りする結果となってしまいました。

しかし、日本人で初めてF1をフルシーズン戦い、日本人がF1へ参戦する道筋を作った功績は非常に大きいものでした。

翌1988年は、前年のチャンピオン、ネルソン・ピケをチームメイトに迎え戦いますが、この年のロータスのマシン100Tの戦闘力がいまいちだったほか、チームの資金不足も影響し開発が進まず、中嶋は鬼門としていた市街地コースの第3戦モナコGP、第6戦デトロイトGPでは予選落ちを喫してしまいました。

チャンピオンのピケをもってしても3位が精一杯のマシンで中嶋はかろうじて6位入賞を一回果たすにとどまりました。
これらの走りが評価されたこともあってかロータスがホンダエンジンを失った1989年もチームに残留します。

しかし強力なホンダエンジンの代わりに非力になジャッドのカスタマーエンジンを搭載したこの年のロータスは前年以上に戦闘力がダウン。

中嶋は入賞出来ないレースが続いたほか、3戦で予選落ちを喫してしまい、苦しいシーズンを送っていました。

しかし、そんな中迎えた、最終戦のオーストラリアGP。
ここで中嶋は鬼神の走りを見せます。

豪雨に見舞われたこのレースではスタートの混乱により赤旗が出る波乱の展開。

再スタートが切られたレースでも、路面コンディションは改善せず、視界がほぼ無くなるほどのウォータースクリーンが上がる難しい状況でスピンやクラッシュが続出していました。
すると、予選で23位に沈んだ中嶋が好タイムを連発しながら驚異的なペースで追い上げレース中盤には4位に浮上。

さらに3位を走るリカルド・パトレーゼを追い回す走りを見せレース中には日本人で初めてとなるファステストラップを記録。

前のマシンに近づくと水しぶきによりミスファイアを起こしてしまうことから、惜しくもパトレーゼを抜くには至りませんでしたが、この中嶋の走りは世界中の注目を集め、日本でも「雨のナカジマ」の異名が広まりました。
1976年のチャンピオンでBBCの解説を務めていたジェームス・ハントは、これまで中嶋に対して一貫して低評価を下していましたが、このレース以降は印象が変わったと発言しています。

そして翌1990年にはティレルに移籍。
ジャン・アレジとコンビを組むと、開幕戦アメリカGPでは2年落ちのマシン、ティレル018で6位に入賞する活躍を見せます。

第3戦からは、当時では画期的なハイノーズ車である019が投入されますが、ハンドリングに苦戦した中嶋はしばらくポイントを逃すレースが続きました。
そんな中でシーズン後半戦のイタリアGPと日本GPで入賞を果たし翌年もティレルに残留することが決定。

1991年は、ティレルのマシン020に前年までマクラーレンに搭載されたホンダV10エンジンが搭載されることになり、さらなる活躍が期待されましたが、重いV10エンジンがシャーシやタイヤとマッチせず入賞は1回にとどまってしまいます。

引退、そして国内レース界への貢献

そして38歳を迎えていた中嶋は、体力に限界を感じ、第9戦ドイツGPでこのシーズン限りでの引退を発表。
引退発表の際にはかつてのチームメイト、ピケが、「中嶋はまだやれる」とコメントし中嶋の引退を惜しみました。

最後のレースとなった最終戦オーストラリアGPでは、レース序盤で早々にクラッシュしてしまいリタイア。
F1の引退と同時にレーシングドライバーからも引退し、中嶋は現役生活に終止符を打ちました。

F1へのデビューが遅く、全盛期を過ぎていたことや比較対象となるチームメイトがトップレベルのドライバーばかりだったこともあり、F1での評価がどうしても低くなりがちな中嶋ですが、これまで参戦してきた日本人ドライバーで唯一、参戦した全てのシーズンでポイントを獲得しておりそのセッティング能力やテストに取り組む姿勢は高く評価されていました。
また、日本でレース経験のあるティエリー・ブーツェンは、日本では歯が立たないほど速かった中嶋がF1では勝てないことに疑問を感じていたほど中嶋の能力は高かったといいます。

引退後は自身のチーム、ナカジマレーシングを立ち上げスーパーフォーミュラ(旧全日本F3000選手権、フォーミュラ・ニッポン)やスーパーGT(旧全日本GT選手権)に参戦。

高木虎之介、中野信治、アンドレ・ロッテラーなど、後にF1に参戦したドライバーたちを輩出しました。

また1993年に鈴鹿サーキットレーシングスクールが開校すると、校長に就任し、佐藤琢磨らの育成に携ったほか、2004年には日本レースプロモーションの会長に就任。

日本のレース界の発展に貢献しています。

【動画で解説】偉大すぎる中嶋悟のレースキャリアを振り返る

ABOUT ME
レイン@編集長
F1・モタスポ解説系YouTuber。 レースファン歴数十年です。 元アマチュアレーサー。 某メーカーのワンメイクレースに5年ほど参戦していました。