皆さんはかつて最高時速400km/hオーバー、1500馬力にもなる、猛獣のようなモンスターマシン達によるレースが繰り広げられていた時代をご存知でしょうか。
それは名だたるプロドライバー達を持ってしても恐怖のあまりスルットルを踏む足が震えたというほどのとんでもない世界でした。
今回は80年代から90年代初頭のモータースポーツ界で盛り上がりを見せた、グループCカー全盛時代について解説していきます。
最高時速400km/h超!狂気のレースカー「グループCカー」とは?
カテゴリ再編によって誕生したグループC!メーカーからも支持集め人気に
1980年代初頭、国際自動車スポーツ連盟(FISA)はそれまで1~8の数字によってグループ分けされていた競技車両のレギュレーションを改正し、6つのアルファベットによるカテゴリ分けに再編します。
この再編前にプロトタイプレーシングカーの規定を定めていたのはグループ6というカテゴリでしたが、この規定で争われた国際マニュファクチャラーズ選手権が、1969年に登場したポルシェ917の独壇場となってしまい、競技として成立しなくなってしまいました。
その後FIAは、グループ6の分類を見直し、1976年には2シーターレーシングカーを規定すると、世界スポーツカー選手権やルマン24時間レースの車両規定にもこのグループ6規定が適用されました。
しかし、この新グループ6もポルシェがこのカテゴリに合わせて製作してきた936が支配。
びポルシェの独走状態が続き、ファンの興味を引かなくなってきていました。
さらに1970年代後半には、当時世界的に影響を及ぼしていたオイルショックの中でもレース活動を行う大義名分が必要だとして、再編カテゴリに燃費を制限する規定を設ける必要性が発生。
こうした課題を抱えた中、カテゴリ再編がなされ、エンジン型式、排気量無制限でレース距離に応じた燃費規定が細かく設定されたグループCカテゴリが、カテゴリ6の後継カテゴリとして制定されることになり、世界スポーツカー選手権も、81年から世界耐久選手権(WEC)に名を変え再スタート。
ルマンにも1982年からこのグループCクラスが制定され、総合優勝が争われるクラスとして位置づけられたのです。
グループC発足!旧規定から続くポルシェの覇権
車体の規制も少なく、シンプルな規定となり、マシン製作の自由度が与えられたこのグループCは、燃費制限による大義名分も含めて参戦メーカー側からは好意的に見られ、多くの自動車メーカーが参入。
盛り上がりを見せていくようになります。
1982年からスタートしたグループC規定のレースでは、前身のグループ6を支配したポルシェが投入した956が同カテゴリを席巻。
956はグループC規定に低燃費が求められることからボディワークやウイングではなく床下からダウンフォースを得ることができるグラウンドエフェクト構造を採用していました。
1982年のWECでこの956は、ドライバーとマニュファクチャラーのダブルタイトルを獲得したほか、この年のルマン24時間レースでは優勝はもちろん、5位までを956と旧規定の935で独占するという完全勝利を達成したのです。
グループC移行後もポルシェの時代は長らく続き、1985年までWEC、ルマンを共に連続制覇すると、1985年の途中からは956をベースにIMSA-GTP用に製作された962をグループC規定に合わせた962Cを投入。
86、87年のルマンも制し、旧規定の81年を含めルマン7連覇を達成し、他メーカーを圧倒しました。
また、956/962Cはカスタマー向けにも多数量産されたため、グループCレースの参戦台数も増加。
ポテンシャルの高いポルシェのマシンが広く扱われたことでプライベーターでも優勝争いに加わることができ、レース自体のレベルを押し上げて行きました。
この間、ジャガー、ランチア、メルセデスのほか、日本からもトヨタ、日産(マーチ)、マツダなど、多数のメーカーが打倒ポルシェを掲げ続々とCカーを開発。
最高時速400km/hに迫る、燃費以外ほぼ無制限のモンスターエンジンを搭載し、各メーカーの技術やアイディアが詰まった多種多様なマシンによる戦いが繰り広げられたグループCは大いに盛り上がりを見せていったのです。
ついに覇権交代!ジャガーとメルセデスの2強時代到来
80年代後半になると後継車開発が進まないポルシェの勢いが落ち、勢力図に変化が見られるようになります。
1987年になると、この年からジャガーがトム・ウォーキンショーレーシングと共に開発、投入したXJR-8が、WSPC(WECから名称変更)を制覇。
翌1988年には後継車であるXJR-9を投入すると、WSPCの連覇とルマン制覇を達成。
1990年にもXJR-12でルマンを制し、ポルシェから覇権を奪いました。
また、この頃のWSPCでそのジャガーと熾烈なタイトル争いを演じていのは、スイスのコンストラクター、ザウバーとともに参戦したメルセデスでした。
1955年のルマンでの大事故以来、モータースポーツ活動を休止していたメルセデスは、1985年にザウバーにエンジンを供給したC8を投入。
この頃グループCのエンジンはポルシェのように3リッター級の排気量で高い過給圧を掛けたターボか、ジャガーのような大排気量のNAトレンドが二分化されいていましたが、メルセデスは大排気量の5リッターエンジンにターボを搭載し低い過給圧でターボをかけるといういいとこ取りのようなパワートレインを採用。
この方法が功を奏し86年のWSPC第7戦で優勝を果たすと、87年からは改良型のC9を投入しました。
熟成が進んだザウバー・メルセデスC9は1989年にはWSPCとルマン24時間レースを制覇。
1990年にも、新車C11を投入しWSPCで連覇を達成します。
80年代後半から90年代初頭のグループCで、ジャガーとともに2強を形成していました。
国産メーカー勢のルマン制覇の挑戦
このグループCには日本の自動車メーカーも多数参入。
1983年にはグループCカー規定を採用した全日本耐久選手権(後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権、JSPC)がスタートします。
トヨタ系では、童夢が1984年に開発した84Cにトヨタの4T-GTエンジンを搭載した車両をトムスらが使用したことに始まり、85年には改良型である85Cを投入。
この年からルマンにも挑戦を開始しトヨタはルマンに挑戦を開始するのです。
以降毎年新車を投入していき、1987年の87Cからは、トヨタがワークス参入したことで、マシン名にトヨタの名が冠されることになりました。
グループCに末期の1991年にはTS010を投入し1992年にSWC(WSPCから名称変更)モンツァで念願の優勝。
この年はルマンでも総合優勝の期待がかかりましたが、惜しくもプジョーに競り負け総合2位に。
グループC終了後もトヨタはルマン優勝への挑戦を続けていくことになります。
日産は当初、あのエイドリアン・ニューウェイが設計に携わったCカー、マーチ85G/86Gを購入してグループCレースに参戦。
85年には富士で開催されたWECジャパンでは星野一義が見事優勝を果たし、日本人で初めて世界選手権制覇を成し遂げたのです。
1990年にはR90CKがこの年のルマン24時間レースで日本車で初となるポールポジションを獲得。
末期のR92CPは富士スピードウェイのホームストレートで時速400km/hを超えるスピードを誇り、日産の代表的なドライバーだった星野一義、長谷見昌弘を持ってしてもマシンから降りると震えが止まらなかったというほど、恐ろしいマシンだったといいます。
グループCカー全体に言えることですが、その圧倒的なパワーに対して当時のタイヤ性能が追いついておらずグリップが低く、加えてダウンフォースの低さやターボラグによるコントロール性の難しさから繊細なドライビングが求められドライバー達は恐怖と戦いながらのドライブを強いられていたのです。
そして、日本のグループCカーの中で唯一の偉業を達成したのがマツダでした。
マツダはロータリーエンジン搭載車にこだわりCカー開発を続けると、1991年には787Bが日本車で初めてルマン24時間レースを制覇。
日本のレース史に名を刻む功績をのこしたのです。
FIA(FISA)の失策で突然の終焉を迎えたグループCカー
盛り上がりを見せていたグループCでしたが、1991年になるとFIAがグループCのエンジン規定をF1と同じ3.5リッター、自然吸気エンジンを採用。
さらにグループCのウリであった燃費規制も撤廃されることになります。
旧規定のマシンも最低重量引き上げというハンデを受け入れることで参戦が認められたものの、これにより多くの自動車メーカーが不満を抱き1992年までに撤退する事態となってしまいます。
さらにこの影響を受け旧型のポルシェなどを使用していたカスタマーチームも軒並み参戦を見合わせ、参戦台数はそれまでの半分以下に減少してしまいました。
結局、1992年限りでSWCは終了し、FIAが主催するスポーツカー耐久の世界選手権はしばらくの間開催されないことになってしまいます。
更にルマン24時間レースに参戦するためにはSWCへの参戦を義務付けたにもかかわらず、このような事態となってしまったため一時はルマンのエントリー台数も減少。
そのためルマンを主催するフランス西部自動車クラブ(ACO)は以降も旧グループC車両の参戦を1994年まで認めましたが、1995年からのクラス再編によりグループCの参戦が不可能に。
これによりついに世界のモータースポーツシーンで一時代を築いたグループCマシンが第一線から姿を消すことになってしまったのです。