の1990年代初頭、日産がF1参戦を見越したエンジンを開発し、それを搭載したグループCカーでルマン24時間レースやスポーツカー世界選手権に参戦しようとしていたことをご存知でしょうか。
一時はあのF1の名門チーム、ウイリアムズと提携の話も進んでいました。
今回は日産幻のF1エンジンを搭載したグループCカー、NP35(P35)の開発経緯や、計画が頓挫してしまったエピソードなどを解説していきます。
F1エンジンを積んだ日産幻のグループCカー「NP35」とは?【ルマン】
グループCカーで頂点を掴みかけていた日産
1982年、FISA(現FIA)による車両規定の再編がなされたことで誕生したグループC。
比較的自由なエンジンレギュレーションと燃費規制により多くの自動車メーカーが参入したこのグループCカーレースは80年代中盤以降人気が爆発し大盛況を誇っていました。
70年代はオイルショックの影響などで一時モータースポーツのワークス活動からは撤退していた日産は、1980年代に入るとモータースポーツ活動を徐々に再開。
1982年になると、シルエットフォーミュラ(グループ5)規定で製作されたR30スカイラインをベースに改良を加えたグループC車両、スカイラインターボCを製作しグループCレースに参入していました。
1985年には、マーチ製作の85Gに、セドリックなどに搭載していた3リッターV6ターボのVG30エンジンを搭載した、「シルビアターボC」「スカイラインターボC」を投入。
同年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)や世界耐久選手権の日本ラウンド、WECジャパンに参戦し、富士スピードウェイで開催されたWECジャパンでは星野一義が豪雨のレースを制するという快挙を成し遂げました。
Cカーの開発競争が過熱していった80年代後半には日産もローラ協力のもと毎年のように新車を製作。
1990年に投入したR90CP/CKは王者ポルシェを破ってJSPCを初制覇、同年のルマンでは日本車で初めてポールポジションを獲得すると、後継モデルのR91CPは1992年のデイトナ24時間レースを制覇、R92CPは92年のJSPCで全戦優勝の快挙を達成するなど、活躍を見せていました。
グループC規則改定を機にウイリアムズと交渉しF1エンジン開発
日産が活躍を見せていたグループCは、1991年になるとグループCのレギュレーションが大きく改定されることになります。
FIAは、グループC参戦メーカーのF1参入を促し、両カテゴリの活性化を図るためグループCとF1のエンジンレギュレーションを共通化することを決定。
グループCのエンジンの規定をF1と同じ3.5リッターNAエンジンのみに規制し、燃料制限規定も撤廃されることになったのです。
これにはグループCに参戦していた多くのメーカーが反発。
当時ターボエンジンで世界選手権の頂点を目指していた日産もCカーのNA化には反対し、社内事情も重なり1991年のスポーツカー世界選手権(SWC)への参戦を見合わせる事態となりました。
しかし、その後日産はNA化を受け入れ、3.5リッターNAエンジンを開発。
Cカーレースで開発を兼ねた参戦を行った上でF1に参入する計画を構想します。
新規定エンジンとそれを搭載するCカーの開発がスタートしたのです。
エンジン開発を取り仕切ったのは、日産の歴代Cカーのエンジンを手掛けた林義正。
ライバルのプジョーやトヨタがこの新規定に合わせたエンジンをV10で開発する中、
林はV10ではピッチングによる振動が激しく、それを抑えるためにバランサーを取り付けると重くなってしまうという理由からV12を採用しました。
将来的にF1にエンジンを流用することを構想していたこともあり、「F1に参戦しているコンストラクターにCカーのシャーシを設計してもらう」ことを考えた林は、エンジンの設計図を持ち込みマクラーレン、ティレル、ウイリアムズなどの名門F1チームと交渉。
中でも好意的だったのがウイリアムズでした。
こうしてウイリアムズと日産によるF1エンジン供給を見据えた夢のグループCカー製作構想が現実味を帯びていき、契約寸前まで話が進んでいたのです。
社内事情でウイリアムズとの提携断念…内製シャーシ開発へ
当時日本ではバブル景気が崩壊。
日産も販売不振からくる経営難に陥っており、社内では膨大な資金を投じるモータースポーツ活動に縮小を求める声が上がっていました。
そんな社内の逆風の中で、プロジェクトを継続するには内部の後ろ盾が必要不可欠。
そこで林はウイリアムズとの提携を泣く泣く断念しアメリカのニッサンパフォーマンステクノロジー(NPTI)にシャーシ開発を委託。
米国日産を味方につけることでプロジェクトの存続を図ったのです。
こうして1992年までに、のちのF1参戦を見据えたCカー用エンジンVRT35と、新規定に合わせ製作されたグループCマシン、P35が完成。
P35はNPTIにカーボンモノコックの製作経験が無かったため、アルミハニカムとカーボンコンポジットのハイブリットで開発されましたが、
後にニスモの水野和敏が中心となりカーボンモノコック化したNP35が日本で製作されています。
そして3.5リッターV12エンジンのVRT35は630馬力以上を発生。
ようやく実戦に投入できるパッケージが揃い、P35をアメリカのIMSAで、NP35を日本のJSPC、世界選手権のSWCやルマンに参戦させる予定で準備が進められて行きました。
グループC終焉と社内事情で計画頓挫…マシンは幻に…
92年10月、NP35がついにシェイクダウンテストにこぎつけますが、皮肉にもそのわずか2週間前、
FIAは新規定の移行が失敗に終わりシリーズが崩壊状態にあったSWCを92年限りで廃止することを決定。
この影響を受け日本のJSPCも同年限りでシリーズが終了する流れに進んでいきました。
そんなグループC終焉の流れの中でNP35はJSPC最終戦のMINEにエントリーしほぼぶっつけ本番で実戦にデビュー。
デビュー戦となったこのレースでは、鈴木利男、ジェフ・クロスノフのコンビがNP35をドライブ。
予選で同規定のTS010から4秒遅いタイム、決勝ではトラブルにより最下位と振るわなかったもののプロジェクトでは翌1993年のルマンに照準を合わせていたため、ここから改良を加えていけば良いと思われていました。
結局SWC、JSPCは消滅。
93年のルマンでは新規定のグループCカーの出場が認められており、当然NP35もそこを目指して活動が続けられるはずでしたが、厳しい現実が突きつけられることになります。
この頃になると日産では経営不振からモータースポーツ活動の縮小が本格化。
92年には社長が交代したことでその流れが加速し、とてもNP35をルマンに参戦させれる状況ではありませんでした。
こうして日産は同年のルマンを欠場。
NP35は「高速車両の基礎研究」という名目でごまかしながら開発テストが細々と続けられルマン挑戦の機会を諦めませんでしたが、林が93年限りで日産を退社。
さらに1994年のルマンではグループC衰退に伴うクラス再編が進み、新規定Cカーが出場できるクラスがなくなった事でとうとう開発活動も打ち切りになってしまいました。
NP35はたった1戦しか実戦を走らないままその役目を終えることになってしまったのです。
しかし、F1参入を見据えたVRT35エンジンの開発はその後も継続され、ニューマチックバルブ仕様の新スペックが密かに開発され最高回転数14000回転を実現していた上、
1994年の日本GPでは鈴木利男がスポット参戦したラルースチームのマシンにテストパーツが搭載されたという逸話も残っています。
しかし結局この計画も頓挫し日産のF1参戦計画は幻となってしまったのです。