かつてローラ、マーチらと世界のフォーミュラカテゴリの市場でシェアを争い、多くの名車を生み出してきたレーシングカーコンストラクター、レイナード。
一時は世界のフォーミュラカー市場を席巻し、名コンストラクターに君臨していたレイナードですが、2000年代前半に倒産してしまいました。
今回はそんなレイナードの波乱の歴史を解説します。
名コンストラクター レイナード 歴史の始まり
1973年、エイドリアン・レイナードが設立したレーシングカーコンストラクター、レイナード。
初期のレイナードでは、彼らが学生時代に設計したフォーミュラフォードの派生車種を多数設計し、フォーミュラフォード1600、2000、フォーミュラスーパーVeeなどのシャーシをを設計。
エイドリアン自身も自社のマシンでフォーミュラフォードをドライブし70年代後半までドライバーとして活躍していました。
フォーミュラフォードで実績を残したレイナードは、フォーミュラボグゾールなどのワンメイクジュニアフォーミュラカテゴリなどからも発注を受けるようになり、その事業を軌道に乗せていったのです。
そんなレイナードの名が本格的に知れ渡るようになっていくきっかけとなったのは、創業から10年以上が経過した1985年でした。
この85年にレイナードは、初めてF3カテゴリのマシンとしてレイナード853を開発。
このマシンは当時F1を中心に普及し始めていたカーボンコンポジット構造のモノコックをF3規格のマシンとしては初めて採用しフォルクスワーゲンエンジンを搭載、空力デザインはグラウンドエフェクト効果を活用した革新的な一台でした。
すると、この853が初めて投入された85年年のイギリスF3開幕戦では、なんとデビューウィンを達成。
新カテゴリに参入するたびにデビューウィンを飾るという、レイナードの伝説がここから始まりました。
この年のイギリスF3ではその後もレイナードのマシンが開幕6連勝を達成。
ラルト勢が後半戦で巻き返し、チャンピオン獲得は逃しましたが、当時のF3の市場は、81年にマーチがF3マシンの製造を休止して以来、ラルト一強の時代が続いており、レイナードの登場はここに一石を投じる形となったのです。
するとレイナードは翌年も、改良型のF3マシン、レイナード863を開発。
ラルトと熾烈な争いを展開し、世界にその名を知らしめていくと、1987年の全日本F3では、87年モデルのレイナード873を操るロスチーバーがシリーズチャンピオンを獲得。
カーボンモノコックを早々にF3に持ち込み、その高い技術力を証明したレイナードは、世界的に成功を収めはじめていったのです。
F3000市場を席巻 世界一のコンストラクターへ
1988年には、当時F1に次ぐカテゴリとしてかつてF1で一時代を築いた3リッターV8のコスワースDFVエンジンを利用して行われていたF3000に参入。
当時のF3000では、マーチ、ローラ、ラルト、ダラーラと、有力コンストラクターがひしめき合う激戦のカテゴリでしたが、レイナードはここに新設計の88Dを開発し、国際F3000や全日本F3000、イギリスF3000などに参入したのです。
すると、またしてもレイナードは衝撃の活躍を披露。
レイナード88Dは88年の国際F3000の開幕戦、ヘレスでデビューしましたが、このレースでは前年のイギリスF3チャンピオンであるジョニー・ハーバートがこの88Dを操り、いきなりポールトゥウィンを達成。
有力コンストラクターひしめく激戦のF3000でいきなりデビューウィンを飾ると、この年はハーバートを始め、ロベルト・モレノ、マーティン・ドネリー、ベルトラン・ガショーらレイナード勢が活躍。
最終的には4勝を挙げたモレノがチャンピオンに輝き、レイナードはF3000でも参戦初年度に頂点を極めたのです。
また、当時国際F3000以上に技術レベルが高いのではないかとも言われていた全日本F3000でも、シーズン途中からシャーシを88Dに切り替えるチームが増えていきました。
レイナードは以降、毎年新型のF3000シャーシを投入し活躍。
国際F3000では89年にもチャンピオンマシンとなると、90年代に入るとその戦闘力の高さは更に盤石のものとなり着実にシェアを拡大していました。
そして、このレイナードのF3000での成功は、その後のフォーミュラ系コンストラクターの市場を大きく変化させていくことになります。
F3000では新興コンストラクターであったレイナードの活躍によって、F3000シャーシの開発競争、シェア争いが加速。
F1のようにカーボンモノコック、風洞実験による空力開発などが当たり前の時代となったことで、開発コストが高騰し、資金力のないコンストラクターが淘汰されていったのです。
70年代から80年代にかけてF2、F3000カテゴリで一斉を風靡したラルトは、89年になると経営難に陥りマーチに吸収。
そのマーチも開発競争が激化するとレイナードやローラにシェアを奪われ、それによって予算もどんどん縮小せざるを得なくなるという悪循環に陥り、89年を最後にF3000の新規開発を終了。
ラルト名義では90年代以降もF3000のマシンを製造しましたが、1992年にはF1での失敗などもあり資金難に陥り、消滅。
1993年になると、ローラも国際F3000から手を引き、国際F3000は一時、実質レイナードのワンメイク状態となるなど、その市場を拡大させていたのです。
しかし、FIAはこの状況を憂慮。
1996年にはこの状況を是正するため、国際F3000のシャーシが入札制となると、ローラがその権利を勝ち取ったことでしばらく続いたレイナード1強時代は終了したのです。
しかし、レイナードは時を同じくして全日本F3000からフォーミュラニッポンと名を変えた日本のトップフォーミュラにはその後もシャーシの供給を継続。
フォーミュラニッポンでは1999年にF3000規格から外れた専用シャーシが導入されましたが、レイナードはここでもライバルのローラやGフォースを上回る戦闘力をみせ、2000年代初頭のフォーミュラニッポンでも実質的なレイナードのワンメイク状態を作り上げていました。
アメリカでも成功収めF1挑戦へ
90年代前半にはF1への参戦も計画していたレイナードでしたが、これはうまくいかずに頓挫。
一旦F1参戦は断念していました。
そして、F1参戦を断念したレイナードが代わりに活路を求めたのがアメリカの最高峰カテゴリCARTシリーズでした。
1992年に始まったこのCARTプロジェクトでは、1994年からのシリーズ参入を目指してレイナード94Iを開発。
このマシンは当時のローラやペンスキーが横置きのギアボックスを採用していたのに対して、縦置きギヤボックスを採用し、高度な風洞による空力デザインを取り入れるなどF3000でのノウハウを活かし、完成度の高いマシンに仕上がっていました。
すると、CARTでもレイナードの伝説は続くことになります。
1994年の開幕戦で、94Iを操るチップガナッシのマイケル・アンドレッティが見事優勝。
レイナードは北米最高峰カテゴリでもデビューウィンを飾り、その技術力の高さを証明したのです。
この年3勝を上げたレイナードは、翌年になると新型車、95Iを投入。
シェアを広げていたこの年は更に勝利数を伸ばし、ドライバーズタイトルとコンストラクターズタイトルのダブルタイトルを手にしたのです。
するとその後は、CARTでも戦闘力の高いシャーシを毎年提供し続け、95年から2001年までで怒涛の7連覇を達成。
90年代前半はF3000、後半はCARTと、世界のフォーミュラ市場でトップに君臨し続けたのです。
CARTのマシンは単価も高く、そこで多くのシェアを獲得したことで、レイナードは業績も好調。
この勢いにのって、90年代後半には再びF1への参入を模索すると、CARTでレイナードのマシンに乗り、1995年のCARTチャンピオンに輝いてF1へ転向したジャック・ビルヌーブ、ビルヌーブのマネージャーであったクレイグ・ポロック、ブリティッシュ・アメリカン・タバコらとジョイントし、新たにF1プロジェクトを設立。このプロジェクトは後にF1の名門ティレルを買収しBARとしてF1に参戦することが決まり、レイナードはシャーシの開発製造を担当する形で、念願のF1参入も果たすことになったのです。
突如レイナードを襲った悲劇..倒産へ
90年代から2000年代にかけて、ヨーロッパ、アメリカ、日本のフォーミュラ市場で成功を収め、順風満帆に見えたレイナード。
しかし、そんなレイナードに悲劇が襲いかかることになります。
2001年9月、アメリカ同時多発テロが発生すると、アメリカの経済は急激に失速。
当然、北米のモータースポーツ界にとってもその影響は大きく、スポンサーの撤退や参戦規模の縮小などが相次ぎました。
これはCARTで成功を収め、アメリカでの売上を軸に事業を拡大していたレイナードにとっても大打撃。
レイナードは、アメリカでより効率よく経営資金を集めるため、株式上場の準備を進めていましたが、この影響を受けて上場は見送りに。
これにより想定していた資金を集めることができず、更にCARTシリーズ参戦チームの撤退等に伴ってマシンの販売台数が減少。
好調時に拡大した施設の維持費や人件費が経営を圧迫し始めたのです。
急速に悪化する経営状況に、エイドリアンは事業規模を縮小しながら出資者探しに奔走しますが、有力者は現れず。
結局、レイナードの経営状況は限界に達し、2002年3月に破産。
90年代に世界のフォーミュラカテゴリを支配した有力コンストラクターの最後は、あまりにもあっけないものでした。