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かつて存在した国内屈指のテクニカルコース「仙台ハイランド」とは?

スーパーGTの前身である全日本GT選手権や全日本ツーリングカー選手権など、かつて全日本格式のレースも開催されていた仙台ハイランド。

かつてはスポーツランドSUGOと並んで東北の2大サーキットとして名を馳せましたが、2014年に惜しまれつつ閉鎖。(遊園地を含む施設は2016年に完全閉鎖)

その歩みを知らないファンも多いのではないでしょうか?

ということで今回は、国内屈指のテクニカルコースとして名を馳せた、「仙台ハイランド」の歴史に迫りたいと思います。

1.国内屈指のテクニカルコース「仙台ハイランド」

1974年、現在の宮城県仙台市、当時は仙台市の西側に位置する宮城町だった場所に西仙台ハイランドゴルフ場がオープン。

運営会社は、この地を当初から複合レジャー施設として運用する計画があり、6年後の1981年には隣接する土地に「西仙台ハイランド遊園地」がオープンしたのです。

そんな複合レジャー施設の西仙台ハイランドのサーキット設立計画が明らかになったのは1985年。

施設では先駆けてオープンしたカートコースで全日本選手権が開催されるなどしていましたが、1986年の完成を目指して本格4輪用サーキットを建設していることが発表されました。

当初からFIA国際公認取得を視野に入れ設計されたこの仙台ハイランドのコースは全長約3,700mの本格レイアウト。

これは当時の国内サーキットでは三重県の鈴鹿サーキット、静岡県の富士スピードウェイに次ぐ全長を誇る3番目の規模で、総工費は約20億円。

コーナー数は17(計画発表当初)とされ、発表されたレイアウトは珍しい左回りのブーメラン型、テクニカルなレイアウトとなっており、難易度の高いコースとなることが予想されました。

建設地は山岳地帯に位置する西仙台ハイランドの中でも比較的平坦な位置が選ばれたものの、コースは地形に合わせた起伏にとんだものになることが予想されました。

県内にはすでに1975年にヤマハが設立したコース、スポーツランドSUGOが存在していましたが、当時のSUGOとは対象的なツイスティなコースとなったのです。

また前述の通りコースはFIA公認取得を目指して設計され、サーキットオープン後は何らかの世界選手権を開催することを目指し、コースは国際自動車スポーツ連盟(FISA)と連携を取りながら建設が進められていきました。

コースは当初、86年の5月の完成を目標に建設が進められていましたが、FISA(FIA)からの指摘が入り、一部のコースレイアウトを急遽変更したことで、オープンが延期に。

この年はサーキットの完成を見越して全日本耐久選手権や全日本ツーリングカー選手権のシリーズ戦が組み込まれていましたが、これによりそれぞれ中止や延期に追い込まれる事態となりました。

グランドスタンドなどの一部施設は整備が続いていたものの、コース部分は9月までになんとか完成。

国際公認は未取得の状態だったものの、サーキットのオープニングレースとして延期となった全日本ツーリングカー選手権(JTC)のシリーズ戦が開催されました。

完成したコースは予想通りのテクニカルコースとなったことに加え、路面のミューの低さやバンプの多さからコントロールが難しく、高いドライビングテクニックが求められました。

2.幻となった国際選手権招致

86年に無事オープンした西仙台ハイランドですが、87年には目標としていた世界選手権開催に向けた動きが活発になっていきます。

すると当時、ルマンのストレートでは400km/hに達する勢いだった最高時速を誇り、その巧妙な車両規定から多くの自動車メーカーが参入し盛り上がりを見せていたグループCマシンによって争われていた、世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)のシリーズ最終戦に西仙台ハイランドが組み込まれることになったのです。

この年のWSPCは9月に恒例となりつつあった、富士スピードウェイでのWECジャパンが組み込まれ、ハイランドでのレースはその翌週の10月初旬を予定。
日本での二週連続開催となる日程でした。

しかし、この時点でハイランドのコースは未だ(開催基準を満たす)FIAの公認未取得。

開催が予定されていた10月に向けてFIAからの指摘箇所を改修し、それまでに査察を受けて公認を取得する算段でした。

しかし、この改修作業を巡って波紋を呼ぶ事態となります。

87年の1月にはFISAの安全委員がコースの査察に訪れますが、15項目の改修工事を指示。

ハイランド側はこれに従い期限である8月までに改修工事を完了していました。

しかし、8月にFISAが再びコースを視察すると、改修工事が指示通り行われていないという指摘を受けてしまったのです。

この時点で選手権開催まで2ヶ月を切っていましたが、ハイランド側とJAFが再査察を要求。(規定では開催から60日前までに査察に合格する必要があった)

FISAはこれを受けて最終期限を開催から約2週間前の9月中旬に設定し、この時点で指摘箇所が修正されていなければレースの開催がキャンセルされることを条件に再査察を認めました。

しかし、9月に行われた査察では、ガードレールの固定強度やタイヤバリアの結束方法など、5箇所の項目にケチが付き、再び公認取得はお預けに。

サーキット側は8月と異なる査察官が訪れたことで基準が変わったことなどや、指摘箇所は数日以内に対応できる小規模なものだったことからJAFを通じて異議を唱えたものの、結局認められず、開催まで1週間を切った9月末の富士WECジャパンの終了後、儚くも西仙台ハイランドでのWSPC開催はキャンセルされてしまったのです。

ハイランド側とJAFはこれを受けて、イベントを急遽国内格式レースとして開催することなども模索しましたが、あまりに直前のキャンセルだったこともあり調整時間も足りず、イベントは結局中止に。

東北地方初の国際選手権レース開催は幻に終わってしまったのです。

3.全日本レース開催、GT-R開発…存在意義見せるも閉鎖へ

世界選手権開催の夢は叶わなかった西仙台ハイランドでしたが、全日本選手権の開催によって国内レースファンにはおなじみの存在となっていきます。

1990年には自治体の合併に伴い、名称を仙台ハイランドに変更。

90年代に入ってからはJTCの後継レースであるJTCCや、現在のスーパー耐久に当たるN1耐久、スーパーGTの前身である全日本GT選手権(JGTC)などが開催され、活況を見せていました。

しかし、このころは同時に、F1開催を目指して建設されたオートポリスやTIサーキット英田、ホンダが建設したオーバル併設のツインリンクもてぎなど国内に最新設備を備えた国際格式サーキットが多く誕生。

更に同じ宮城県内に隣接するSUGOも、ハイランド完成後の1987年に大改修を実施し、国際基準のサーキットに変貌。

開業当初はその規模の大きさから重宝されていたハイランドですが、新規サーキットの増加や設備の老朽化、時代の流れによるマシンの進化に対する設計の古さなどが重なり、90年代後半になると全日本選手権の開催は激減していったのです。

2000年代に入るとレースイベントは国内の地方選手権がほとんどとなっていましたが、レイアウトと路面状況が生み出す難易度の高いコースは多くの若手ドライバーを育てることに貢献していました。

しかし、2010年代に入ると、細々と運営を続けていた仙台ハイランドに大打撃となる事態が発生します。

2011年の3月に東日本大震災が発生。
これによりコースの至るところでひび割れや隆起が発生したほか、コントロールタワーなどの施設にも被害が発生しコースは休業に追い込まれてしまいます。

当時から運営会社の経営難が噂されていたハイランドにとってこの被害は致命的。
それでもなんとかコース部分は修復し営業を再開し、その後はコースの起伏がドイツ・ニュルブルクリンク北コースの路面に近いという理由で、日産GT-Rの開発テストなどにも利用されていました。

しかし、2012年にはそんなハイランドに追い打ちをかけるように爆弾低気圧による暴風被害が発生。

これらの影響もあってか仙台ハイランドは2014年、サーキットを閉鎖して跡地にメガソーラー施設を建設する計画を発表。

サーキット存続を望んだ有志や企業による反対運動や経営権の買取も検討されたものの、どれも実現せず、同年の9月、仙台ハイランドはサーキットの営業を終了。

結局施設全体としても遊園地を翌2015年、ゴルフ場を2016年に順次営業終了し、仙台ハイランドはその長い歴史に幕を閉じたのです。

国内でも有数のテクニカルサーキットとして多くのドライバーを育て、名勝負を生んだ仙台ハイランド。
その歴史の幕切れはあまりにも儚いものでした。

【動画版】かつて存在した仙台ハイランドとは?

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レイン@編集長
F1・モタスポ解説系YouTuber。 レースファン歴数十年です。 元アマチュアレーサー。 某メーカーのワンメイクレースに5年ほど参戦していました。