今では日本を代表するレースシリーズとなり、人気を博しているスーパーGT。
規則が整備されていった現在では各メーカーがスーパーGTのために開発したマシンや市販のレーシングカー(FIA-GT3)などが参戦していますが、
牧歌的でまだ参戦車両に求められる規定が多くなかった前身の全日本GT選手権(JGTC)時代にはとんでもない珍車が参戦していた事をご存知でしょうか。
今回は、かつて全日本GT選手権に参戦していた珍しい車種や車両を紹介していきたいと思います。
かつてスーパーGT(全日本GT選手権)に参戦していた珍車
ランボルギーニ・カウンタック
近未来的なデザインが異彩を放ち、日本でもスーパーカーブームを象徴する車として人気を博したカウンタック。
そんな伝説とも言えるカウンタックが1990年代に日本のレースシーンに姿を表します。
1980年代初頭に発足したジャパンランボルギーニオーナーズクラブ(JLOC)が寺井エンジニアリングの寺井輝明と共同で、1994年に始まった全日本GT選手権にランボルギーニで参戦することを計画。
そこで参戦車両として選ばれたのが、カウンタックでした。
スーパーカーブームの火付け役としても話題になった漫画「サーキットの狼」の作者、池沢さとしもドライバーとして参戦。
現在のGT500にあたるGT1クラスに出場したこのカウンタックは、上位に食い込むことは出来ませんでしたが多くのファンを沸かせました。
また、2000年にはイギリスでカウンタックのレプリカモデルを販売している「ミラージュレプリカ」がイギリスのレース向けに製作したカウンタックのレプリカモデルを、「RGSミラージュ」としてJGTCに持ち込み、チームスリランカとしてGT500に参戦。
全てハンドメイドで製作されたこのマシンはスペアパーツがなく、クラッシュした場合は即参戦終了という状況でした。
RGSミラージュにはシボレーの5.7リッターV8 NAエンジンが搭載され、エンジン音はあの高音ではなく、ドロドロとしたアメリカンサウンドを響かせ走っていたといいます。
「RGSミラージュ」はこのシーズンの4レースに出場し、GT500車両であるにも関わら予選でGT300の最後尾と同等のタイムしか出すことが出来ず、嘆願書を提出しても決勝への出走が許可されないという事態となりました。
結局、このチームスリランカは一度もレースを走ることなく参戦終了。
その後、2003年にチームレイジュンがこのRGSミラージュで参戦。
今度はGT300にエントリーしたものの、やはり好成績は残せず最高位は25位に留まってしまいました。
トヨタ・スプリンタートレノ(AE86)
80年代を代表するトヨタのFRスポーツクーペ、スプリンタートレノAE86は貴重な軽量のFR車として注目されるようになると、
1995年に連載を開始した「頭文字D」の主人公、藤原拓海の愛車として取り扱われたことなどで人気が爆発。
レースやドリフトのベース車両としても重宝され、80年代は全日本ツーリングカー選手権や富士フレッシュマンレースなどで活躍を見せましたが、
生産が終了してからはその姿をサーキットで見ることは少なくなっていました。
しかし、ハチロクの生産終了から12年が経過した1999年。
スーパーGTの前身である全日本GT選手権(JGTC)に突如このハチロクが参戦したのです。
マシンは1996年からJGTCに参戦していたクラフトの手によって製作され、GT500クラスのスープラに搭載されていた「3S-GT」エンジンを搭載。
F3マシンに使用されていた足回りを一部使用するなど大改造が施されました。
GT300クラスにエントリーしたこのハチロクは99年の第3戦SUGOでデビューすると、第4戦MINEでは見事入賞を果たします。
2001年まで参戦を続け、最高位は5位と惜しくも表彰台には届きませんでしたが多くのファンを沸かせたマシンの一つとして注目されました。
最後のレースとなった2001年の第3戦SUGOでは、レース中のトラブルにより炎上。
悲劇的な最後を遂げました。
ランチア・ラリー037
1982年の世界ラリー選手権(WRC)に参戦し翌年はマニュファクチャラーズタイトルを獲得した名車、ランチア・ラリー037。
四輪駆動のラリーカーが主流となりかけていたWRCにおいてミッドシップの車両としての最後のタイトル獲得車でもあります。
そんなランチア・ラリー037が、1994年になんとサーキットレースのJGTCに参戦。
ロッソコンペティションがJGTCの規定に合わせてマシンを改造し、この年の第3戦富士で、GT1(GT500)クラスにエントリーしたのです。
しかしマシンのギヤ比はラリー仕様のクロスギヤレシオのままで、最高速は170km/h程に留まり、富士スピードウェイの長いストレートでは途中で吹けきってしまうという状況でした。
結局、GT2(GT300)クラスの最後方と同等のタイムを記録するのが精一杯となり、決勝では7周遅れでの完走。
参戦はこの1度限りに終わってしまったものの話題を集めた参戦となりました。
ルノースポール・スパイダー(スピダー)
ルノー・スポールが1996年から1999年にかけて製造、販売を行った初の市販車スパイダー(スピダー)もJGTCに参戦したマシンの一つです。
市販車としては1700台程度しか生産されず、大変レアな車種であるこのマシンは、
フランスで行われたワンメイクレース「スパイダートロフィー」参戦車両のロードゴーイングバージョンとして生産され、
オーディオやエアコン、パワステなどの装備すら搭載されておらず、販売開始当初はフロントスクリーンすらないというスパルタンな車でした。
そんなスパイダーはecurie SiFo(エキュリー・シーフォ)の手によって1997年のJGTC第2戦富士で、GT300クラスにエントリー。
初エントリーとなった富士ラウンドでは、フリー走行中にマシントラブルを起こしてしまいレースは欠場。
その後、スペアのエンジンとミッションを3基ずつ持ち込み、最終戦SUGOに再びエントリーしたスパイダーは、後方でのレースとなったものの、
トラブルを起こすことなく見事完走を果たしました。
トヨタ・キャバリエ
前述のAE86を参戦させたクラフトが前年までJGTCに投入していたマシンがトヨタ・キャバリエです。
ベースとなったキャバリエは1995年に販売が開始されたシボレー・キャバリエをベースに、トヨタがOEM供給を受けて販売していたバッジシェアリングモデルで、
当時アメリカとの間で問題となっていた、自動車の輸出過多による貿易摩擦の緩和を目的に販売が展開されました。
駆動方式はFF、ボディタイプは4ドアセダン、2ドアクーペのモデルがラインナップされましたが、販売台数は思うように伸びず低迷。
当初予定していた販売計画を前倒しして、2000年には販売を終了。
そんなキャバリエがJGTCの舞台に現れたのは1997年でした。
この年、MR2で参戦していたクラフトが、スーパーツーリング規定で製作されたキャバリエ(クーペ)をJGTCのレギュレーションに合わせリメイクし、第4戦富士からGT300クラスに投入したのです。
規定の自由度が高いレースカテゴリにおいて、FF車がベースとされる例は珍しいとされていましたが、この頃のJGTCでは、翌年に参戦した三菱FTOや、
レーシングプロジェクトバンドウが投入したトヨタ・セリカ(ST202)など、FFベースのマシンの参戦が多く見受けられた時期でした。
エンジンは直列4気筒の2リッターNA、3S-GEエンジンを搭載。
ドライバーには佐藤久実、田中実が起用されました。
キャバリエは、デビュー2戦目となる第5戦MINEで4位入賞。
翌1998年は3度の入賞を果たしました。
しかし翌年からチームはマシンをハチロクに変更したため参戦を終了。
今でも一部のファンの間では語り草となっているマシンです。
三菱・ミラージュ
FFの珍車ででもう一つ欠かせないマシンが、
1987年にフルモデルチェンジが行われた三菱、3代目ミラージュです。
三菱の主力車種であったミラージュは1985年からワンメイクレースである「ミラージュカップ」が開催されるなど、
モータースポーツのベース車両としても人気を博していましたが、この3代目ミラージュはJGTCにも参戦したことがあるのです。
1996年の第2戦、「ポールリカール・エイメイ・ミラージュ」としてGT300クラスに参戦したこのマシンは、
ミラージュカップカーをベース車両とし、ランサーエボリューションに搭載されていた直列2リッター4気筒ターボの4G63エンジンを搭載。
予選は14台中の13番手、決勝はリタイヤでした。
結局、参戦したのはこの一度だけで終わり、ほとんど情報も残っておらず、まさに「珍車」といえる存在です。
ポルシェ・962C
1984年にポルシェが、IMSA-GTPクラスに参戦するために開発、製作した962をベースに、グループC規定に合わせて作られたポルシェ962C。
最高出力1000馬力、最高時速400km/hオーバーのマシンたちによる激戦が繰り広げられていた当時全盛期のグループCにおいて、
962Cは1985年の登場以来、その速さと信頼性の高さを武器にル・マン24時間レースをはじめ、世界各国の耐久シリーズを席巻しました。
日本においては、1992年に消滅してしまった全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)に登場。
長年に渡り活躍を続けた962CでしたがグループCの衰退とともにその姿をレースシーンで見ることはなくなっていました。
しかし、1994年、シリーズが発足した全日本GT選手権に、この962Cをエントリーさせたチームが現れたのです。
かつてJSPCで962Cを走らせていた、日本のレースファンにはおなじみの老舗プライベーターであるチームタイサンです。
タイサンが現在のGT500クラスに当たる、GT1クラスに送り込んだ962Cは、規定に合わせリストリクターと300キロを超えるバラストで性能調整がなされ、
かつてのモンスター級の走りは影を潜めてしまいましたが、話題性は十分でした。
ドライバーにはあのマッチこと近藤真彦とアンソニー・レイドを起用。
当時のJGTCはスタンディングスタートを採用していましたが、ローリングスタートしか想定していない作りであったグループC規定の962Cはスタートで出遅れてしまうシーンが多々見受けられました。
しかし、かつて世界の耐久レースシーンを席巻したポテンシャルはJGTCでも発揮されます。
第1戦、第3戦の富士ラウンドではポールポジションを獲得し、第3戦ではそのまま優勝も飾りました。
しかしJGTCにおいては、規則上の制約が多くほとんど改良が加えられず、他車がアップデートに成功しタイムを上げていく中で、相対的に太刀打ちできなくなっていったことから1年で参戦を終了。
このJGTCでの優勝が数々の勝利を重ねてきた962Cがメジャーレースで手にした最後の勝利だと言われています。
マツダ・ロードスター
「人馬一体」を具現化し、唯一無二の存在として人気を博している、
マツダを代表するオープンライトウェイトスポーツカーであるロードスターの初代に当たるNA型が誕生したのが1989年。
1997年には、そんなロードスターのNA型がJGTCに登場します。
東京科学芸術専門学校の実習も兼ねて制作されたこのマシンは、エンジンを13Bのロータリーエンジンに換装。
実習を兼ねていたこともありこのマシンの製作費はなんと500万円程度という低コストに抑えられていました。
マシンは、同じエンジンを搭載するRX-7に比べて重心も低く安定感があったといいますが、
最低重量の規定によりバラストを積まなければならず、ロードスターの強みである、ダイレクト感のある素性を活かすことができませんでした。
ドライバーは野上敏彦、輿水 敏明、細野智行らが務め、1997年の第4、6戦とオールスター戦、1998年の開幕戦に参戦。
入賞を果たすことはできなかったものの、学生たちとともに夢を追った一台となりました。